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怪異・妖怪伝承データベース
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検索対象事例

カムロヤシキ
1956年 宮城県
仙台の城下が出来る前、北七番丁のあたりに、大崎の家臣湯田靱負が住んでいた。明応年中(1492~1501)、この家に振舞があると、見ず知らずの若い女が現れて十人分働き、膳が出来るといなくなる。食事がすむと再び現れて一人で後始末をして姿を消す。家人は心得ていて話しかけもせず、女も口をきかない。どこから来てどこへ帰るのか誰も知らない。

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サラヤシキ
1956年 宮城県
仙台城二之丸裏門通と中坂通の十字路西南角の屋敷。二代藩主忠宗のとき、家宝の皿10枚のうち1枚を割った女中が手討ちにあい、井戸に投げ込まれる。夜な夜な皿を数えて泣く声がし、侍の家に変事が起こって死に絶え、屋敷は荒れ果てる。大年寺二世の月耕禅師が四代綱村に願って隠居屋敷としてから、怪はやむ。
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ソデフリチョウノユライ,フルダヌキ
1956年 宮城県
仙台市小田原の一角に蜂谷屋敷と呼ばれる地域がある。そこはもと蜂谷長者といわれた蜂谷定国の屋敷で、藩政時代その一角に栗の古木があった。その頃夜になると老樹の下に、振袖姿の白い顔の女が佇んで、小路を通る人にニタニタ笑いかけたといわれ、その通りは夕方になると通行が途絶えてしまった。それを聞いた剣客狭川新三郎が夕方に出かけると、やはり怪しい振袖姿の女がニタニタ笑いかけた。新三郎が小柄を投げつけると、キャッと声を立て手応えがあって、女の姿は闇に消えた。翌朝調べると、劫を経た古狸が咽喉を刺されて死んでおり、それ以来妖異は絶えてしまい、誰ともなく袖振丁と呼ばれるようになった。その後、誰が建てたのかこの屋敷内に狸塚とよぶ小祠があり、明治の頃まで残っていたという。一説にこの通りの屈折の形が振袖に似ているからともいわれる。
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ビジョノヤシキ
1956年 宮城県
仙台藩士日向某が泉田出雲を尋ねると,同家の土塀の出格子から,内側の庭園に美女がいるのを見た。主人に庭にいる美女は誰かと尋ねると,「あなたも見たか。春の長閑な日は路地の向うの畑に佇んでいる事もあり,暮れ方には白装束に散らし髪で茶の間の前の釣瓶井戸で水を汲み上げている時もある。前代の本田伊賀,つまり源之助の父が住んでいた時からそういう変異があったと語り継がれてきた」と話した。雨の降る淋しい夜などに腰の曲がった老婆が破れた鉦鼓を首に掛けて軒下を徘徊する事もあったという。但し家や人に害をなしたり凶事が起こることはなかった。
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オロクジゾウ
1922年 新潟県
ある村で毎年盂蘭盆の夜に盆踊りが始まると決まって見知らぬ若い女が現れ、美しい声で音頭を取った。誰だかわからなかったが、いつしか「お六」と呼ばれるようになった。ある夜よくない男達がお六をとらえようとしたが、村端の石地蔵の辺りで姿を消した。その後、娘が来ることはなくなり、村はさびれた。娘の正体は石地蔵とされ「お六地蔵」としてあがめられた。
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カイイヤシキ、オオニュウドウ、ヤシキカミ
1956年 宮城県
昔,新坂通台町五番丁南側東角の屋敷を拝領した侍が一人住まいをしていた。ある夜座敷に寝そべっていたところ庭先近くで呼ぶ声が聞こえる。障子の隙間から覗くと軒よりも高いような大入道が立っており,ここは昔から自分の屋敷だから早く立ち退けとわめく。主人が「ここは殿から拝領した我が屋敷じゃ。お前こそ立ち去れ。」と言い返すと,「ここはわしを粗末にしたので住み着いた者はいない。祭の日に神酒や供物をして厚く祀ってくれれば守護してやろう」といって消えてしまった。翌朝調べると屋敷の一隅に梅の老木があり,その下に小祠があった。それが前夜の大入道が屋敷神として棲んでいた祠だったのだろう。当時今泉孫八郎の屋敷であった。
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ケショウノモノ,タヌキ
1974年 東京都
寛政七年八月、小倉侯中屋敷に住む女隠居の下女が行方不明になった。同年十一月、長局の下に何かがいたので調べたたその下女だった。女が言うには三人の若衆が世話をしてくれたと言って死んでしまった。この屋敷にはたぬきが多い。8月以来神仏への供物や食べ物がなくなることがあった。これを食わせていたのだろう。このことを聞いた下女たちは暇を願い出た。
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シュゲンシャノタタリ
1956年 宮城県
昔仙台城下東郊に広田甚八という番士がいた。ある時仲間と酒盛りをしていると,盛り上がっている頃に山伏が戸口にやってきて法螺貝を吹き鳴らした。座興を壊された甚八は立腹して山伏に斬りかかり,助命を請う山伏を殺してしまった。翌日甚八はその筋に無礼討の旨を届け,お咎めもなくすんだが,その後行状を改めるどころか益々酒乱と狂気の状が募って遂に座敷牢で狂い死にしてしまった。また,甚八の息子が江戸番馬上役を仰せつかったが,上京の前夜一人の山伏が来てここは広田殿の屋敷かと聞く。そうだと答えると「みんな亡んでしまったと思っていたのに」というので下僕はこれを叱り飛ばし,その旨主人に告げた。主人も親戚も山伏と聞くと顔色を変えて,山伏を捕らえようと飛び出したが,その姿はもはや何処にもなかった。さて当主は江戸到着後間もなく失明して労咳を患い,やがて亡くなった。さらに男子彦兵衛と女子なかも幼くして死に,未亡人は後今市の丹野某の後添となったもののやはり不慮の禍で亡くなった。
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ビジョ
1992年 宮崎県
穴谷の鍾乳洞には昔一人の美女が住んでいた。美女は頼めば膳椀を貸してくれり蜜柑や柿をくれたりしたが、決して顔を見せようとせず、話すときは後ろを向いていた。里の青年が無理やり顔を見ようとつかみかかったら、美女は洞窟の奥に姿を消し、再び現れることは無かった。
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スクイヲモトメルオンナ,クビ
1956年 宮城県
ある冬の夕方、1人の若侍が、荒町から真福寺(愛宕橋際)へ下る細小路の只木惣助の門前で美しい女に出会い、「自分はこの近くに住む囲い女(妾)です。今夜切られるので助けてください」と頼まれ、約束はしたが、そのまま河畔の自宅に帰った。床について真夜中、川の方から「助けて!」という悲鳴が聞こえ、間もなく若侍の家の路地に女の首が飛んできて、恨み言をはいたという。
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ヨウカイ
1977年
享保初年頃、剣術指南をしていた江戸大久保の浪人が年末に闇夜を弟子と歩いていると門柱の飾りの竜が襲いかかってきた。弟子は逃げたが立ち向かうと動かなくなった。次に寺から女が現れ耳をつかまれたら不意をつかれた為気絶してしまった。戻ってきた弟子に醜態を見られた。
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セリザワノサラヤシキ
1956年 宮城県
昔,芹沢という者が武芸の腕によって禄とこの土地を賜った。それから三代後の当主の時の話。ある正月,同家の女中が主人秘蔵の錦手の皿十枚を箱に納める際,一枚を落とし毀してしまった。しばらく隠していたが遂に露見し,一刀のもとに斬り殺された。その後毎夜のように同家の水屋に女中が現れ,「一枚,二枚,三枚・・・九枚・・・おお・・・」と恨めしげに訴える。主人は自らの仕打を悔い,女中の霊を慰めるために石地蔵を刻み,自分の山の頂に建てた。また不吉の刀を地中に埋め,小祠を建てて祀ってやった。以後女中の声も聞こえなくなったという。今でもこの山を地蔵山と呼ぶ。なお旧芹沢家には別人が住んでいるが,その後は何の変事も起こらないという。
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コリ
1977年 東京都
江戸小日向で天明3年10月晦日、水戸侯の長屋の近くで美しい着物を着た老女と出会い、その世話をすることになった。食事をしないことや、忽然と姿を消したことなど正体はまったくわからないが、狐や狸の類だったのだろう。
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ネズミニコロサレタハナシ
1956年 宮城県
享保の頃(1716~1736),仙台城下での話。享保5(1720)年4月新妻胤信より採集。伊藤氏の家来の六兵衛が鼠の妖災によって病に臥し,危篤になった。ある夜亥の刻頃,伊藤氏の義兄新妻胤信が様子を見に行くと,六兵衛は毎夜安眠できずすっかり疲労していると嘆いた。胤信が慰めていると,何処からともなく大小の鼠が6,70匹ばかり現れ,寝床の辺を這い回る。六兵衛がいくら追い払っても効果がなく,家人が来てようやく追い払った。六兵衛の話では,毎夜このような状態で医師も祈祷も効かず殆ど寝られないという事であった。間もなくして六兵衛は死んでしまった。鼠の祟りか何か,その辺の事情は不明である。
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ジャシン,チンマ
1943年 岐阜県
日和田の豪家原家にチンマという下婢がいた。よく働き料理の腕がすばらしく、そのうえ美人であった。チンマは杣人の小三郎と恋仲になり、村人に羨ましがられたが、あるとき突然姿が見えなくなった。「チンマが洗い物をしていた流しの下に蛇の骨が積まれていた」「蛇のだしをご馳走に入れていた」などのうわさが流れ、チンマは蛇身であることが見破られて姿を隠したのだということになり、着物に糸を通した針を刺しておくと糸が池の原の雌の池に消えたので、その池の主であるといわれた。
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ヤマノカミ
1939年 島根県
大石家の田植えは早乙女の数が実際の人数より1人多く、不思議がられていた。昼食の膳を整えると、昼食前に数えた時より1人減っていて、どうしても一膳あまったという。この家の裏にある原山の山の神が田植えを手伝っていたのだという。ある時、あとをつけた人がいたが、トロバタケという所で見失ったという。
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ツジニタツドウジョ
1956年 宮城県
北五番丁、堤通東の横丁で、時々14,15歳の女の子が辻番所に立っているのをよく見た。正徳2年(1712)正月24日の夜、菊地治助という者が通りかかり、この童女が小盆を持って佇っているのに出遭った。
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ミチヲフサグウバ
1956年 宮城県
台町一番丁から二番丁へぬける横丁通り西浦のあたりに、大きい皀莢木(さいかち)が枝を広げていたが、夜、その下に白髪の老婆が横丁をふさいで立っていることがよくあった。ある夜某家の仲間(ちゅうげん)がそれに遭って驚き、一番丁へあわてて駆け抜けたという。(現在「台町一番丁」などの地名は見当たらないが、仙台市内か)
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マチドオリノカイ
1956年 宮城県
南町の東裏、塩倉(しぐら)丁-東一番丁、大町角より南-から東へ通ずる横丁は遠藤某の屋敷で、西隣は細目某(昔は小島藤右衛門屋敷)の屋敷であった。その遠藤屋敷で、ある暮方、南隅の藪際の梅の古木の上に立烏帽子・白直垂を着た若い男が立って、金の扇でこちらに招きかけていた。大入道や一ツ目小僧などと違い、気味の悪い感じだった。またある時は、愛子から荒町へ帰る男が、この屋敷の前で、杉の木の上から白衣の女にケタケタと笑いかけられ、驚いて逃げ帰ったという。
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〔ハンテイシモヤシキノオンビョウ〕,ネコ,マクラガエシ
1956年 東京都
只野真葛女の祖父丈庵が獅山公隠居屋敷に勤めていた時の話。久しく人の住んでいなかった山を開いて邸宅を建てたためか,移り住んだ当座はどこからともなく拳大の石が長屋に投げ込まれることがあった。昼夜の別はなかったが,特に雨降りで暗い夜などに多かった。他に宿直の侍が枕がえしをされたり,灯火が突然消えたり,蚊帳の釣り手が一度に切れて落ちたりすることもあった。ある時,典医の丈庵が命ぜられて宿直をしていると堪らなく眠くなった。それでも何とか薄目で見ていると大きい猫か狸のような獣が現れ,途端に蚊帳の釣り手が一度に切れた。以後は何事もなかった。翌日は昼夜時々鉄砲を撃たせて威嚇したが,日中二度ほど大犬程で尻尾の太い赤毛のものが庭前の林の梢をとび渡った。鉄砲を浴びせたが,逃げ回って姿を消してしまった。その後このような怪事は減少したが,ある時御長屋門の下の辺に犬くらいの猫が眠っていたので,近侍の者が鉄砲で打ち殺した。この辺りは特に野良猫が多い所であった。
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オンナジュンレイ,コモリオンナ
1933年 大阪府
ある夜、女の順礼者が男に辱められた。以来、子守女が子守唄を歌いながらそこを通るようになった。しかし、姿を見た者はおらず、きっと近くのお地蔵さんが子守りをしているのだということになり、お地蔵さんを縛ったところ子守唄も聞こえなくなった。
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