ジカクダイシ,ズイウン,セイリュウ,リュウトウ 1974年 東京都 慈覚大師が東方を行脚していた時に浅草寺でしばし逗留した。ある日白髪の翁がやって来て、東北に霊地があって、私はそこに霊像を安置した。その像は伝教大師が作ったものだと言い終わると姿を消したという。そこで慈覚大師が東北に向かったところ突然瑞雲が立ち、青竜が雲から現れた。庵に入り、仏像を拝んだ。慈覚大師は青竜に対して、ここに寺を造るので加護してほしいと告げる。それを聞いた青竜は姿を消した。その後は時々竜燈の奇瑞が起きるという。
類似事例 |
|
メグロフドウ 1974年 東京都 慈覚大師が若い頃、師の広智と目黒の里で宿をとった。その夜に不動明王が現れる夢を見た広智が慈覚に言うと、慈覚も同じ夢を見たという。そこで、その姿を霊木で彫り、その地に置いた。その後、慈覚大師が唐から帰朝し、関東へ下向した時目黒の里にやって来た。その夜にも不動明王のお告げがあり、嶺の上に登って独鈷で地面を掘ると霊水がわき出した。この水は炎天にも枯れることなく、長雨でも増える事はなかった。
類似事例 |
|
ビシャモンテンノゾウ,ユメ,ドウジ 1983年 京都府 夢の場所に辿り着いて不思議に思うと、草中で毘沙門天の像を得た。そこで寺を建立してこの像を安置した。しかし伊勢人は観音像を安置したいと思っていたので願いが成就しないと考えた。その夜の夢に童子が現れ、観音と毘沙門天は一体だと答えた。そこでまた1宇を建立して千手観音を安置した。
類似事例 |
|
チュウホウソンジャ,テング 1935年 群馬県 龍華院弥勒寺(迦葉山)で、900年ほど前に中興の天巽禅師に師事した中峰という神童がいた。天巽が大法を大盛禅師に伝え、後に憂いがないのを見定めて、中峰は「我釈迦の化身にして既に権化の業を了せり自今上天して末世の衆生を抜苦興楽せしめん」といって両禅師に別れを告げ、案山が峰から昇天したという。当地の天狗面は中峰尊者をかたどったものという。
類似事例 |
|
ユウテンダイソウジョウ,ユメ,キツネ 1975年 祐天大僧正は、子のいない父母が、月輪が庭の木に降り、地蔵大士が如意珠を授ける夢に見た後に生まれた。誕生を祝って親族が集まった時、外に狐が来て三回鳴いた。皆が怪しんだが、祖母は夜に見た夢とこのことで、子供は優れた人物になると確信したと言い、僧にするよう訴えた。
類似事例 |
|
ユメ,コンジキノヒカリ,ハクエヲチヤクセルオキナ 1983年 賢心という僧が夢の告げに従って淀川の辺に行くと、一つの流れに金色の光があった。その源を探して遡ると一流の滝に着き、不思議に思って側を見ると庵の中に白衣を着た翁がいた。200年そこに住んだというその翁が大悲の応現だと悟った賢心は、翁の願い通り大悲の像を安置することを決心した。
類似事例 |
|
レイム,シンリュウ 1983年 大阪府 聖武天皇が、平城京の西に救世観音象がおわす霊夢を見、行基に命じてこれを求めさせた。行基が誓いを立て深山に分け入ると、十六童子に導かれてある場所へ至った。その時山川震動して神龍が現れ、観音と自らの掌を行基に与え、仏法守護を誓った。話を聞いた天皇は尊崇し、寺を建てて像を安置した。
類似事例 |
|
オイワケニョライ 1956年 宮城県 出羽国寒河江慈恩寺の覚明阿闍梨は、湯殿山の霊夢により弥陀の本尊造像を京の安阿弥快慶に頼む。快慶が精魂を打ち込んだ阿弥陀如来は会心の作で覚明に渡すに忍びず、いまだ出来ずと偽って覚明を帰したが、翌年約束どおりに訪れた覚明に渡すこととなり、名残を惜しみ近江の草津まで見送る。別れるとき笈を開くと、光明がさし一体の阿弥陀像は二体となっており、いずれが本仏とも化仏とも分明せず、二人は一体ずつ負って別れる。よって笈分如来とも身分け如来ともいう。覚明は南北に川が流れ、一本の菩提樹の生えている地を夢に見て、今の地に移した。他の一体は京都市下京区富小路六条角の蓮光寺にある。
類似事例 |
|
エンガクシャウニン,レイム 1983年 奈良県 母に捨てられ、僧に拾われて出家した子(後の円覚上人)は、母を恋しがり法隆寺の聖徳太子に祈って霊夢を受けた。京で道俗男女を集め、過去現在の名帳を記し、異相の振る舞いで踊念仏をすれば母に会えると告げられたので、その通りにすると本当に母に会えたという。
類似事例 |
|
チショウダイシ 2002年 滋賀県 智証大師は入唐して青龍寺に住んだ。帰朝ののち、比叡山の座主のときに、弟子に香水を取らせて散杖で西の空に三度灑がせた。弟子が問うと、青龍寺が火事で、金堂の戸に火がついたのでそれを消した、という。翌年の秋唐の人が来て、「昨年4月に青龍寺の金堂に火がついたが日本から雨風がきて火を消した」という書状をもってきた。弟子は合点した。
類似事例 |
|
ヤマノテラドウウンジ 1956年 宮城県 弘仁年中(810~823)、慈覚大師が中興し、山ノ寺という。利府の阿久玉御前の子である田村麻呂が、少年時代に宝亀年中(770~781)に学問を学んだ寺。弘仁年中(810~824)慈覚大師が中興して山ノ寺という。享保年中(1716~1735)、輪王寺前住牷沓和尚が復興し、大伽藍となる。僧定恵が書いた輪が広がってそれだけの土地を貸すことになってしまった夫婦の話、女とその懸想した相手が大蛇となって人々を苦しめた顛末、などが伝わる。
類似事例 |
|
イタチ 1939年 秋田県 龍泉寺に鼬がやってきて、木の葉に経文を書いてもらって巣を作ったがやがて死んだ。和尚の夢枕にその鼬が立ち、自分の生まれ変わりを引き取ってもらえるように頼んだ。和尚がその通りに引きとって育て、やがてその子は大和尚になり、様々な法力を使った。
類似事例 |
|
テングサマ 1982年 群馬県 弘法大師が榛名山に住もうとして千谷を作ろうとしたが、天狗様に1谷どうしても隠されてしまい、住めなくなって紀州の高野山に行った。
類似事例 |
|
〔コウチホウイン〕 1973年 広智法印はかつて高野山に登ろうと思って、ある土地に来た際に、飛瀑に紫雲が生じるのを見てここが浄土だと思って入定した。それから470年にわたって体はなんら損なわれることなく、いまもなお在るという。また、900年ほど前にも比叡山で伝教大師の弟子で広智という人がいたのは、この人のことだろう。
類似事例 |
|
ショウジンブツ 1928年 奈良県 役行者の修練時代、吉野山を上りつめた金峰山に本尊を得るため、17日の間般若心経を唱えたところ、地蔵菩薩が現れた。慈悲円満の顔をした菩薩であったが、強剛な愚民を治めるには柔和な顔ではだめだと思った行者は菩薩を西に向かって投げた。その地蔵菩薩は伯耆国(鳥取県)の大山に飛び去り、そこの寺の本尊になったという。。
類似事例 |
|
トビ 1975年 京都府 永承の頃、西塔の僧が京に出た帰りに、東北院の北の大路で、子供たちにいじめられていた鳶を助けた。その帰り、藪から法師が出てきて先ほどの礼をしたいという。僧が霊山で釈迦の説法を聞きたいと望むと、法師は下松の上の山に僧を連れて行き、ここで説法の声が聞こえるまで目を閉じて待てという。ただ、信心を起こしてはならないと告げた。その通りにしていると、説法の声が聞こえてきたので目を開いたら、紛れもなくそこは霊山で、釈迦を中心に菩薩衆などがいた。おもわず手を合わせたら、山が鳴動して草深い山になった。
類似事例 |
|
ミョウエショウニン,レイム 1974年 和歌山県 栂尾の明慧(明恵)上人の父は、老いても子ができなかったことを憂い、仏閣に参詣していた。するとある日妻の夢の中に梵僧がやって来て、柑子を1つ授けた。そして夢から覚めた妻は明恵を身ごもっていたという。
類似事例 |
|
ケブツノミダ 1983年 慈覚大師は入唐して顕密の奥義を極めたが、帰朝の途中で、引声の弥陀経の一曲を忘れてしまった。そこで西方に向かい祈誓した所、舟の帆の上に、小身の弥陀が香煙に立ち、成就如是功徳荘厳と唱えてくれた。慈覚は感激し、袈裟を以てその姿を写し、帰朝後にそれを真如堂の本尊の胎中に納めた。
類似事例 |
|
テング 1935年 群馬県 龍華院弥勒寺(釈迦山)に、昔一人目立って利発な小僧がいた。当時の上人は般若湯が好きで信州から取り寄せてたしなんでいた。ある日その小僧に使いを命じると、その夜のうちに帰山した。その時は気にしなかったが、度重なるうちに様子を見れば見るほど合点が行かぬ事が多くなり、結局天狗の化身と分かった。
類似事例 |
|
アミダニョライ 1983年 後光厳院の時代、西大寺の覚乗上人は天照大神の本地仏である阿弥陀如来の姿を拝もうと、伊勢内外宮に100日参詣し、ようやく夢告を得て二見浦で金龍蛇形の姿を見た。覚乗は袈裟を海に投げいれたが神は見えなかった。するとまた夢告を得て、大平山無量寿寺に自分の姿を彫った阿弥陀三尊像を安置しているといった。実際行ってその像を見ると、覚乗が脱いだ袈裟が架かっていたという。
類似事例 |
|