シガノヤクシ 1956年 宮城県 貞観2年(861)慈覚大師開基のとき、飛騨工匠が村人に一夜で堂を建ててみせるという。村人が夜明け前に鶏の啼く真似をしたので、工匠は天井板一枚張りかねて立ち去った。堂前の坂の中ごろにある蛇石は、材木を運んだ牛が転んで石に化したという。堂に狩野法眼元信の絵馬に手綱が描かれていないので、絵馬から抜け出して畑を荒らしたため、元信に頼み手綱を描き加えてもらったという。
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ヤマノテラドウウンジ,ダイジャ,シロキツネ 1956年 宮城県 女とその懸想した男が大蛇となってから500年経た暦応元年(1338)、加州金沢の大乗寺三世明峯素哲禅師が陸奥に弘教し、岩沼竹駒神社の初午に参詣した時、老翁からこの話を聞き、その案内で大菅谷保の藤左衛門の家に泊った。翌未明山ノ寺の南の丘に登って大蛇の棲む寺跡の湖水を見、7日の間祈祷したのち一喝して杖を投ずると2頭の大蛇が現れて逃げ去る。そのとき白狐が飛び出して禅師に感謝し、永く寺の守護を約する。禅師が祈祷した地に寺を建て実相寺という。
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キシゼンジ,リュウジン,シカ 1974年 山口県 石屋禅師の弟子である器之禅師は応仁年中に、周防の陶氏の招請に応じて一寺を創建する。そこに大きな池があったが、一夜のうちに池を埋めて住地とし竜神を篤く祀った。その時竜神は仏法弘通のためにこの地を献じるという証文を禅師に贈った。また鹿が来て禅師に宝玉を献じたともいう。
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ヘビ 1967年 福島県 文政のころ、八沢村の阿弥陀寺に大変な数の蛇がいた。中には3メートルばかりのものもおり、子供が近づいても逃げない。寺の小僧がこのことを坊さんに話すと、坊さんは追い払わなくても蛇が好きなものをやればよいという。好きなものは何かと小僧が聞いたところ、坊さんは冗談に煙草のやにだといった。小僧が蛇に煙草のやにを食わせたら、蛇は苦しみどこかへ行った。小僧が寺に帰り掃除をしていると突然発狂したように苦しみ、蛇が腹を巻いているという。坊さんが阿弥陀に祈ると小僧の苦しむのが止んだ。そこで蛇のために卒塔婆を建てたのが八沢の蛇塚だという。
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アキウオオタキ 1956年 宮城県 名取川の全川瀑で、貞観2年(860)、慈覚大師が不動を祀って山寺立石寺奥の院とした。元和9年(1623)山形城主鳥居忠政が山寺の朱印地を犯して寺と抗争したとき、立石寺中興の円海上人が、三七日大滝に参籠して、忠政調伏の呪詛を修した。満願の日、滝壺に投じた藁人形が高さ55メートルの滝を昇ったという。上人は不動堂前に経壇を築いて去る。よって経壇原という。
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カンゼオン,ビシヤモンテン,ヂザウボサツ 1983年 京都府 田村丸が詔を受けて東夷征罰を行った時、自ら建てた仏殿の本尊に祈ったところ、観世音・毘沙門天・地蔵菩薩が戦場に現れて、敵をことごとく退治した。そこで田村丸は、宣旨を受けてこの地に伽藍を建立し、数箇所の寺領を寄せ、大同2年にさらに再興して、その寺を清水寺と号した。
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バンザン,テング 1956年 宮城県 もとの名取・宮城の郡境にまたがる根張りの広い山。弘法大師は山容を蓮葉にたとえ、霊場にするため九十九谷まで開いたが、天狗に妨げられ一谷を残して紀州に去り、高野山を開いた。慶安3年(1650)慈光不昧禅師雲居和尚が瑞巌寺を引退してここに隠居したときも、天狗どもが和尚の法力をためそうといって和尚の障碍をしたが、この山を根城とした万二万三郎兄弟が和尚のために天狗を追い払った。和尚はこれを徳として、山上に坐禅堂を建てたときに二王護国大権現の号を贈って一山の鎮護とした。
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レイム 2004年 岩手県 奥州忍の里に住むタカソトハノタケトシが,息子を光明寺に入れる。息子は光明寺一の学匠となり,比叡山に移ることになった。その頃叡山の高僧は,山王権現から「東から来る童子を弟子とすれば山門の誉れとなる」との霊夢を授かっていた。果たして息子は一大学匠となり,後に盲目の父母と再会を果たす。息子は慈覚大師であり,観音菩薩の化身である。
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ヘビ 1959年 福井県 700年ほど昔、海山の寺を建てるときに、大工と女中とが懇ろになり、子ができた。女はお産の後を見てくれるなと言ったのに大工が覗くと、女は大蛇で、大工は逃げた。女は大工の朋輩に子供を託し、自分の両眼球を乳代わりに与えた。寺大工と一緒になって成仏しようと思ったが叶わなかった。しかし自分の前世の罪が滅びたとき、寺の椎の木に実がつくので、見届けて欲しい、と言い残した。その椎の木は花は咲いても実がならなかったが、昭和30年ごろ実がついた。蛇女が成仏したのだろう。
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ミチビキイヌ,コウボウダイシ 1935年 和歌山県 弘法大師が帰朝し弘仁7年密教禅院を開創しようと巡礼中、大和国宇智具にやってきたとき白黒2頭の犬を連れた狩人明神に出会い、地形についてたずねた。狩人は紀州伊都郡の南に霊地があるとして2頭の犬を先頭にして進むと突然丹生都比売神が現れ山上に導いた。その時老松の上に大師が唐から投げた三鈷金剛杵が燦然と輝いていた。大師はその利験を喜び霊場を開いた。導いた犬を伝えて導き犬という。
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ホッショウダイゼンニノレイ,ボウレイ,ノリウツリ,(レイジ),(オツゲ) 1974年 千葉県 応永年に中村家の娘に法性寺の建立者北条時頼の娘桐姫である大禅尼の霊が乗移り、寺の和尚に「我が生前の女人としての不浄けがれの為、血の池地獄で苦しんでいる。どうか血盆経を授けて救ってほしい」と懇願して来た。和尚が本尊の地蔵菩薩に祈ると満願の日老僧が現れ、そのお告げに従い東方の湖水に行くと空中に花が降り蓮台に座した血盆経があらわれそれを読誦すると亡霊である尼と女人らは成仏することとなった。
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ノノダケヤマ 1956年 宮城県 延暦2年(783)磐井郡達谷の岩屋の蝦夷の頭目高丸が、駿河の清見ヶ関まで攻め上がった。坂上田村麻呂が勅を奉じて撃退し、高丸を追って神楽ヶ岡で殺し、その党悪路王を斬った。その後、山上に敵味方を埋葬し、大塚を築いて上に観音堂を建て、地主権現の白山の社前に矢を射て蝦夷平定を祈願した。この矢が地に突き立って根を生じ、箆といい、それを山名としたという。
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ジゾウボサツ,セイメンコンゴウ 1983年 愛媛県 柿の木部落に地蔵菩薩を信じる兄と青面金剛を信じる弟がいた。弘法大師がやってきて兄弟に感心し、それぞれ仏像を刻んだ。後世、松が鼻に地蔵堂を、松尾坂麓に青面金剛の堂を作った。乱世で失ったが、その後北宇和群広見町深田の庄屋河野勘兵衛通行が松が鼻で石を枕に寝ていると夢地蔵菩薩が現れ、掘り出して供養すれば婦人のお産を安泰にする、と告げたので掘り出して祀った。これが現在の子安地蔵である。その後再び夢のお告げと二匹の猿の導きで松尾坂の青面金剛も掘り出し、お堂を造り祀った。これが現在の庚申堂である。
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ウマ 1967年 福島県 坂上田村麻呂が大滝根山の石窟に住む大多鬼丸という夷賊征討の出発に際し、清水寺開祖といわれる延鎮上人が仏像を刻んだ余材で鞍馬100匹を刻み田村麻呂に贈った。田村麻呂はこれを鎧櫃に納め戦に出たが、苦戦状態の時どこからか鞍馬100匹が陣営に走りこんだ。兵士たちはそれにまたがり大滝根山に攻め込み勝利した。ところが凱旋の時には鞍馬は皆消えていた。翌日1匹の木馬が三春近在の高柴村で汗まみれになっているのを杵阿弥が見つけ、延鎮上人の鞍馬に違いないと、残りの99匹を自ら刻み補った。3年後には見つけた1匹も行方不明になり、99匹を子孫に伝えた。杵阿弥の子孫は木馬を模作し村人に与えたところ、それで遊ぶ子供は強健に育ち、病気も軽くなったので子育駒の名がたった。
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ヤマノテラドウウンジ 1956年 宮城県 昔ここに大菅谷、佐賀野という夫婦がいて、ともに容顔美しく老いを知らなかった。ある日、定恵が訪れて九十九峯、九十九谷の水清らかな地形を見、錫杖で地上に輪を描いてこれだけ地を貸してくれと言った。大菅谷が承知すると輪は広がり全部その中に入り、約束ゆえ夫妻は土地を明け渡して泉ヶ岳のふもとに移る。今その地を堂所という。定恵はその跡に蓮葉山円通寺を建て、一名を佐賀野寺、邑名を大菅谷保と称した。
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イイヌマノテンジン,シンドノトガメ 1973年 茨城県 浅草報恩寺は元々下総国飯沼にあった。法然の弟子だった性信が、この寺を建立した年の冬に老翁がやってきて、法話を聞いて感動し、自分は飯沼の天神であることを告げる。そして師のために長く擁護するといった。また天満宮の禰宜の夢に出て、師恩の為に鯉2匹を備えさせた。後年、禰宜がそれを怠るとその年の祭礼で、大木が折れたり池の鯉も絶えた。これは神怒のとがめと言われた。
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アラマキノモンジュ,ユメノツゲ 1956年 宮城県 相馬中村の山伏佐藤八大院長秀は、弟甚次郎定次と共に父の仇の山伏上之坊を大和大峯の果無し峠に討った。仙台に移って伊達政宗に召しだされ、嶺八郎と改めて禄若干を賜る。ある日文殊菩薩の埋木像が賢渕に沈んでいるのを夢想の告げによって引き上げ、これを本尊として荒巻山街道沿いの丘上に堂を建てた。昔は女の子が13歳になれば、知恵を授かるといって必ず参詣した。
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マイノカンノン 1956年 宮城県 昔ここにあった大沼に大蛇がすみ、人に害を加えていたのを大同2年(807)坂上田村麻呂が退治し、その死体を埋めた上に観音像を安置し、法楽の舞を奉納したので舞野という。
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ヒキガエル,ヘビ 1963年 岡山県 昔々金山寺の大きな蝦蟇と大蛇が住んでいた。この両者が争ったが、それを報恩大師が法力で鎮め、綱引きの形を蛇にして祭る事となった。また江戸末、明治初年頃に金山寺に吝嗇な坊主がいたが、綱引きのとき皆にかゆを食べさせなかったので皆が怒り綱引きで引いた綱をはずして寺の本堂を引き回した。あくる日坊主が本堂へ行くと大蛇がのた打ち回っていた。坊主は村の有力者に救いを求めたが、皆が行くと縄があるだけであった。
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ヒル,コウボウダイシ 1987年 愛知県 昔、坊さんが矢梨の里を歩いていた。田植えのころで、村人は蛭に悩まされていた。坊さんが井戸はないかと尋ねるので村人が清水のわくところに案内した。坊さんが水を飲み甲掛けを洗っていると、その手に蛭が群がった。坊さんは経を唱えて杖を泉に浸してしばらくそのままでいたが、やがて杖を収め立ち去った。その後、蛭はいなくなり、村人はここを「甲掛け清水」「蛭封じ井戸」と呼んだ。坊さんは弘法大師だったという。
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