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怪異・妖怪伝承データベース
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検索対象事例

ウサオオカミ
1974年 大分県
弓削道鏡が孝謙天皇に寵愛されていたので、太宰府の阿曾麻呂という者が宇佐の神の託宣と称して、道鏡に登極をすすめる。そこで孝謙天皇は勅使・和気清麻呂を宇佐に使わした。清麻呂は神前で事を奏して祈念すると、大神がたちまち宝扉をひらき、身長3丈ほどの姿を現し、道鏡の登極を認めない神託を下したという。

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ワケノキヨマロ,ウサハチマン
1974年 大分県
和気清麻呂が八幡の神託を奏し、道鏡によって足の筋を切られ、大隅国に流される途中、宇佐八幡宮に参詣したところ、足の筋がたちまちなおり、歩けるようになったという。
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スギヤクシ
1956年 宮城県
天平(729~749)の昔、孝謙天皇が御不例で、医薬効なく太史に占わせたところ、陸奥にある高さ数十丈の大杉の枝葉が雲をしのぎ、その陰が皇居に達しているさわりと分り、大納言某を遣わして伐採を命じた。某は築館の地に大杉を発見し伐ったところ、伐り口から血が流れ、翌日はふさがって元通りになる。幾ら伐っても同じことであった。杉の東北の広野にある茅萱を縄とし伐り口をふさげば伐れるという占いによりようやく伐り倒す。切りくずは飛散して一片もなかった。天皇の御病も治り、勅命で伐り口に仏堂を立てた。のち慈覚大師が薬師如来を安置した。
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ユメマクラ,カミ
1989年 山梨県
孝謙天皇が下の病気で悩んでいたある夜、夢枕に神が現れ、甲斐の国の西山に名湯があるとお告げがあった。女帝はここへ行幸されることとなり、篠党孫左衛門は1党を率いて迎えに行き、ちょうどその1行と出くわした場所をいまでもデェ地という。篠党が女帝を背負おうとすると、その名では負うてもらうためにはいかないといわれたので、以降、深沢と名を改めることにし、女帝を背負って峠を越えた。
類似事例

ハチマンダイボサツ
1977年
朱雀天皇の時代のこと、天慶3年に平将門を誅罰する際、八幡大菩薩が現れて、白木御弓と藤巻狩股の矢をもち、託宣を述べたあとに矢を射ると、即時に将門は討ち取られたという。
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(アミダノシュツゲン),クハウメウ,タクセン
1983年 京都府・大分県
僧行教が筑紫宇佐八幡宮に参籠し修行していた所、八幡宮から託宣があり、王城の近所に移り天子を守護しようと告げた。その後、行教の袈裟の上に阿弥陀の三尊が現れたので、これを写して絵像にした。行教が筑紫を発ち山崎に登ると夢告があり、覚めると峰に光明があったので,そこに八幡宮を勧請した。
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オニ
1929年 京都府
一条天皇の頃、大江山に妖賊がでるので退治を命じられた源頼光が、山伏に姿を変えて和田街道へ進み、上川口村宇野花の孫八という農夫孫八に山の案内を頼み鬼の棲家を探す途中三貴神に出遭って道を教えられ、鬼獄稲荷神社で鬼毒酒を賜って鬼降伏祈願をして、やがて首尾よく鬼を退治することができた。
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ダイゴンゲン,アカギミョウジン,シロシカ,ダイジャ,ロウオウ
1967年 福島県
人皇五六代清和帝のころ、下野国(栃木県)日光山ふもとに万三郎という弓の名人がいた。このころ、上野国(群馬県)赤城明神と日光山の大権現が争い、日光山大権現が白鹿となり、さらに老翁となって万三郎に助けを求めた。万三郎は赤城明神が18丈の大蛇となって攻めてくるのをうちやぶった。その勇が禁裏に聞こえ、以降日本国中の山について山立御免となり、そのご朱印をいただいた。
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ヨウカイ,コマイワ
1960年 岡山県
崇神天皇の四道将軍、吉備津彦命が備前に入り本宮山の峰に来た頃、その峰の西方約1里の所に毎夜妖怪が現われ、里人はたいそう恐れていた。里人は命に妖怪を退治してくれるように願い出た。数日後のある夜、気比神社の西方3キロのところに火柱が現われ、命は境内の見晴らしの良い駒岩から弓でこの怪物を射た。矢が命中するや否や、大音響と共に怪物は岩となった。これを今に残る的岩という。
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ヒトコトヌシノオオカミ
1929年 奈良県
天皇が葛城山に登ったとき、向かいの山を登る人がいた。天皇の行く手を阻むので、怒った天皇が矢を射った。すると相手は一言主之大神だと名乗ったので、天皇はかしこんで衣を献上した。一言主之大神は、天皇が帰る際に大神山から降りてきて長谷の山口まで送りにやってきた。
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タジカラオノミコト,アマノイワト
1928年 長野県
天照大神が天岩戸に隠れた時、手力雄命がその戸を開けようとした。しかし勢いあまって、天岩戸が下界に落ちてしまい、その落下してできたのが、戸隠山である。
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タニカゼノウシイシ
1956年 宮城県
仁王門のうしろにある牛形の石。霞目村の百姓弥右衛門の女房がみごもったとき、日本一の力持ちをさずかるように仁王に丑ノ刻参りをした。満願の日に恐ろしい牛が仁王の前に寝ていてたじろいだが、思い切って背中を踏み、お参りを果たす。生まれた子、与四郎が後の大横綱谷風で、仁王が石を牛に見せて谷風の母を試したのだという。
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イヌソトバイシ
1956年 宮城県
嵯峨天皇の時代、年を経た大猪がいて、頸に二階枝の松を生やし、京の人々をおびやかした。小野篁は、勅をうけて会津磐梯山に猪を追跡するときに遭遇した、番二、番三郎という兄弟に加勢を命ずる。兄弟はかしこまって大きな白犬をつれて猪を追跡、蔵王の麓で発見する。白犬が大猪と格闘したところを兄弟が一矢ずつで射とめたが、白犬も重症を負って死ぬ。その供養の塔婆であるという。
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タイラノマサカド
2004年
八幡大菩薩の使者と称する「昌伎」が将門の所に現れ,八幡大菩薩が「朕位」を「蔭子」である平将門に授与するという託宣を告げた。
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ヤマガミョウジン
1956年 宮城県
山家清兵衛公頼は伊達家に信任され、長子秀宗の懐守役となり、元和元年(1615)秀宗が宇和島十万石の封に就くとき、付け家老として従う。公頼の忠誠は上下の信頼を集めたが、家老桜田監物がそねみ讒訴したので、秀宗は公頼の屋敷を襲って殺させる。時に元和5年(1619)6月晦、公頼は死すともこの冤を雪ぐといって死ぬ。その夜仙台城の政宗の前に血まみれの公頼の姿が現れ、冤を訴える。政宗は怒って秀宗を勘当、監物以下次々に変死する。宇和島に和霊明神を建てて祀り、仙台にも立町通東二番丁南角の山家氏邸内に山家明神を建て、毎年6月晦に祭りを行なう。公頼が蚊帳の釣り手を切り落として殺されたというので、昔この夜は蚊帳をつらなかった。
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ヤタノカガミ,ナイシドコロ
1983年 京都府
天照大神が天の岩戸に閉じこもった時、その姿を映したという八咫鏡が、宮中から飛び出て天に上がろうとしたことがあった。その時、女官の衣の袖にかけて止めたことから、今でも神鏡をおさめる内侍所は女官が守護しているという。
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ウシイシ,レイム
1929年 東京都
右大臣頼朝が東国追討の際みた夢のなかに、菅神(菅原道真)が牛に乗って現れ「頼朝卿に二つの幸がある、武運満足の後は小社を営むように」と告げられた。目覚めてみると夢の牛と同じ形の石があった。同年、頼家が生まれ翌年には平家を討つことができた頼朝は、社殿を建てその際霊夢を見た後出現した牛石も寄付した。
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ヤマバト,ハチマンダイボサツ
1974年 東京都
寛永13年ころ、徳川家光の弓大将であった松平新五左衛門尉直次に与力すべく、人々がある場所で弓の稽古をしていた。人々は徳川家の氏神である八幡大菩薩が弓矢の守護神だったので、同地に八幡宮を勧請することにした。彼らの願いは叶えられたが、その時山鳩が3羽松の枝にとどまったといい、人々は八幡大菩薩の影向と受け止めたという。また将軍家に若君が生まれたのは、社僧が受けた八幡大菩薩の夢告に少しも違わなかった。他に神前で風流の踊りをしていると、亥の刻あたりに神木の松の梢から、提灯ほどの光るものが出てきて、社の上に落ちた。
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サンノウノミカミ,シンタク
1973年 滋賀県
ある時の天皇が、唐崎の浜に行幸したときに、沖から2艘の漁船が棹を差してきた。天皇はそれを近づけて尋ねると、2人の翁がいた。翁は神変奇特を現して歌を詠んだ。そのときには船はどこにも見えなくなった。これは神託で、山王の御神であったという。
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キョボクノセイ,マショウ
1935年 大分県
孝徳天皇の白雉年間に草壁春里という長者がいた。広大な邸宅でこの世の浄土のような生活をしていた。長者は権勢に任せて串川の上流にある千条の枝を持つ栢の霊木を切り倒した。その巨木の霊に祟られたのか、一家ことごとく魔性のためとられていった。筑後の国草野の庄に草野太郎衛門という弓の名人がいて、狩の道すがら残された長者の末娘、玉姫に会い、事の仔細を聞いて妖怪退治の決心をした。魔性に1矢を放つと雷鳴とともに空はかき曇り大豪雨になって小川は忽ち氾濫した。
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ノノダケヤマ
1956年 宮城県
延暦2年(783)磐井郡達谷の岩屋の蝦夷の頭目高丸が、駿河の清見ヶ関まで攻め上がった。坂上田村麻呂が勅を奉じて撃退し、高丸を追って神楽ヶ岡で殺し、その党悪路王を斬った。その後、山上に敵味方を埋葬し、大塚を築いて上に観音堂を建て、地主権現の白山の社前に矢を射て蝦夷平定を祈願した。この矢が地に突き立って根を生じ、箆といい、それを山名としたという。
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