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怪異・妖怪伝承データベース
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検索対象事例

キツネ
1956年 宮城県
伊達家御乱舞方の一噌流笛の名人鯰江八太夫が、この網地島(あじじま)に流刑となる。彼が毎日夕方海岸に出て笛を吹く度に、男の子が来て聴いていた。ある日いうには、わたしは年古くこの島に住む狐だが、近いうちに狐捕り弥左衛門が来るので笛を聴くのも今夜限りといい、殿様が松ヶ浜の御殿崎に出馬するから笛を吹くようにとその月日を教え、笛のお礼に源平屋島の戦を見せて姿を消す。殿様出馬当日、八太夫の笛は御殿崎までとどき、八太夫は赦免になる。

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キツネ,オンガエシ
1956年 宮城県
網地島長渡に流されていた鯰江六太夫は笛の名人で,夕方になると毎日のように14,5歳の童子が笛を聴きに来ていた。ある夜童子が「笛の音を聴くのも今夜限りです」というので訳を尋ねると,実は童子は千年の劫を経た狐で,仙台城下に住む弥左衛門という狐捕りの名人が自分を捕らえに来るのでもはや自分の命はあるまいという。弥左衛門に狙われると神通力を失ってしまうからである。童子はこれまでの恩返しにと六太夫の所望を聞き,源平合戦の様を見せた。座が忽ち海原に変じたが,終われば元の小屋であったという。
類似事例

キツネ,オンガエシ
1956年 宮城県
網地島長渡に流されていた鯰江六太夫の所に笛を聴きに来ていた童子は実は狐で,弥左衛門という狐捕りの名人が自分を捕らえに来るのでもはや自分の命はあるまいと観念する。そこで童子はこれまでの御恩返しにと六太夫の所望を聞いて源平合戦の様を見せ,吉事を予言して消え失せた。2,3日後,白狐はついに死んでしまう。六太夫が童子に教えられた通り笛を吹くと,国主の耳に笛の音が届き六太夫は程なく召し還された。
類似事例

キツネ,オンガエシ
1956年 宮城県
童子は六太夫に,国主が塩釜ノ崎,松ガ浜に出馬する日を教え,その時六太夫が名笛鬼一管を吹けば必ず吉事があると言い残して消え失せた。果たして六太夫がそのとおりにすると,海上三十里も離れた国主の所に笛の音が届き,感嘆した国主はほどなく六太夫を召し還した。
類似事例

アジシマノオオニュウドウ
1956年 宮城県
網地浜地区では,漁があると初物を種ヶ崎の神社に奉献する習慣があった。しかし明治の中頃この部落にいた四郎右衛門という鰹船の船頭はとても吝嗇で,獲ってきた鰹を神前に供えず,申し訳程度に社前の海に投げては後でそれを拾って帰るということをしていた。ある夜遅く,眠っているところを雨戸の外から呼び起こすものがあるので出てみると,入り口に大入道が立っておりいきなり四郎右衛門の手をとって外に引き出そうとした。柱に掴まって抵抗すると,敷居ごとミリミリと壊れかけた。大入道は「行かぬなら馬を連れていくぞ」といって厩舎の方に行き,馬も入道もそれきり姿を消した。
類似事例

ハチメンダイオウ,オニ,ヤマドリ
1990年 長野県
将軍の命令により、弥助も山鳥の尾を探した。褒美をもらって嫁に着物でも買うつもりだったが、見つからなかった。嫁は話を聞いて探しに出かけ、翌日山鳥の尾を持ってきた。嫁は山鳥であり、魂のこもった尾を弥助に差し出して消えた。弥助はそれで矢を作り、将軍に捧げ、それで八面大王は退治された。弥助の家には褒美の品々が運び込まれたが、弥助とその母親は呆然とするばかりだった。
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フルダヌキ
1956年 宮城県
鯨島には昔、古狸が住んでいた。朴島の漁夫が夜釣りをしていると、鼓の音がして名を呼び、屋島の戦や壇ノ浦の戦の浄瑠璃を聴かせ、続きは明日の晩聴かせてやるといった。翌日村の仲間一同で島の近くへ夜釣りに出たが何事もなく、漁夫はみんなから冷笑される。次の夜独りで行ったら後段を聞かせてくれた。以後、独りで行けば誰でも聞けたという。島の東南中腹に奥深い洞穴があって、古狸のすみ家という。
類似事例

〔サケノダイスケ〕
1956年 岩手県
旧家羽縄(ハナワ)家に伝わる伝説。沢山の牛を飼っていたが,毎年巨鷲が飛んできて牛を掠っていく。刺し殺してやろうと,主人が牛の皮をかぶって待っていると,鷲に掴み去られて玄界灘の孤島の老杉の枝に置き去られた。島から逃れられず困っていると,老人が現れて「私は鮭の化身で,大助という一族の長だが,毎年10月20日には仲間達が気仙の今泉川に入って産卵する例になっている。貴国の人たちへの恩返しとして送って進ぜよう。」と言う。主人は無事帰郷できた。羽縄家では毎年10月20日に当主が川口に行って神酒を供え,鮭綱を切ってやり,産卵しやすくしてやることが明治頃まで仕来りとなっていた。また羽縄家では一切鮭を口にしなかった。
類似事例

ハチメンダイオウ,オニ,ヤマドリ,(ユメノオツゲ)
1990年 長野県
有明山のふもとに住む弥左衛門は息子の弥助が幼いうちに八面大王という鬼にさらわれた。立派に成長した弥助はあるとき大きな山鳥を助けた。それから3日して弥助は美しい娘を娶った。そのうちまた八面大王が暴れ始めた。坂上田村麻呂が観音堂で祈ったところ、特定の山鳥の尾を矢にするよう言われた。その話を聞いた弥助は悩んだが、嫁がそれを持ってきた。嫁は山鳥の化身であり、その後姿を消した。その矢で八面大王は退治された。
類似事例

カタヌマ,タナバタ,ハタノオト
1956年 宮城県
伊達政宗の姫が御小姓と駆落ちして鳴子で捕われ、潟沼の岸で処刑された。姫の首は潟沼に入り、御小姓の首は花渕山の沼に飛んで入る。その日は7月6日で、毎年七夕の夜に御小姓の亡霊が潟沼に通い、一晩の逢瀬を楽しんだという。その夜、沼の底から聞こえる機の音を聞くと、3年のうちに死ぬといって恐れられた。
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カッパ
1991年 滋賀県
1人住まいの治郎平の所には河童が毎日「相撲を取ろう」と来た。あまりうるさいので治郎平は「言うことを聞いたら取る」といって、河童を柱に縛りつけた。河童の千人力の皿を壊そうと鉄棒を振り上げると、河童は驚いて、「爺さんを川に曳こうと思ったが、これから河合の村がある限り止めるから許してくれ」と言って帰った。以来門口に毎朝お礼の魚が置いてあったという。爺さんが魚かけに便利なカンギを作ったら、自分がかけられると恐れ、「人を川の中へひかん」という証文を置いて来なくなった。
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イソザキイナリ
1956年 宮城県
文禄の朝鮮の役(1592)に、磯崎の水主が伊達勢の水軍として高麗に渡ったが、磯崎稲荷も眷属の狐を従えて出陣したといい、肥前の名護屋に滞陣中、その中の1匹が淀君の侍女について侍女が病気になる。それを追い出そうとすると、「われこそは奥州松島は磯崎明神の眷属なるぞ」と力み返ったので、太閤大いに怒り、「汝早々に狐めを退散させずば、やわかそのままに差し置くべき」と、お叱り状に、稲荷太明神殿、太閤秀吉としたため、花押までつけて遣わしたので、狐も逃げ出し、侍女の病気も治ったという。このお叱り状は磯崎稲荷に長く伝えられていた。
類似事例

キツネ
1956年 宮城県
藩政時代,角田館主石川家の家臣で館矢間にいる若侍達が,城下での稽古から帰ってくる途中魚などを持っているとよく狐にだまされた。ある時若侍達が,竹刀の先に魚を結び付けて夜道を無事に帰ってこれるかどうか賭けをしようということになり,一人が竹刀を持って出かけていった。朧月夜の並木道に差し掛かると,向うから竹刀を肩にした武芸者風の大男がやってきて,すれ違いざまにいきなり打ち込んできた。若侍が思わず竹刀で受け止めると大男は消え失せてしまったが,気がつくと竹刀の先の魚の包も無くなっていた。
類似事例

キツネ
1976年 新潟県
德川時代、伊達政宗に滅ぼされたカナガニトウトオミノカミの遺臣淸野孫右衛門が漆沢集落に来て、肝煎になった。その五代目が武家復興を月山権現に念じて二十一日の願掛けをした。途中、痩せた狐の親子に赤飯を振る舞ってやった。満願の日、德川の家老オニコがお墨付きを持って迎えに来て、そのまま道中した。道中は犬止めの禁が出た。新発田街道を通って聖篭で夜が明けると、行列はなく槍だと思っていたのは萱であった。孫右衛門はそのまま落ち延び、息子ともう独り着いていったものは帰ってきた。
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メッコヌマノカイ
1956年 宮城県
沼のほとりに身を隠していた平氏の残党の従僕で茂右衛門という弓の名人が,沼に大魚が2尾泳いでいるのを見つけ,そのうちの1尾を射た。矢はその目を貫いていた。その夜彼の夢にもう片方の大鮒が現れ,「私達はこの沼の主の夫婦鮒だが今日夫があなたの矢で殺され,生き長らえる望みも無くなった。あなたの殺生が恨めしい」といって消えたので茂右衛門は後悔したが,翌朝未明ふらふらと沼のほとりに歩いていった。岸辺には2尺余りの雌鮒が片目を潰して死んでいた。数日後村の人が沼のほとりで片目を刺されて死んでいる茂右衛門を発見したが,その手には大きな片目の魚を握っていた。彼の目を刺したものはわからなかった。それ以後沼の鮒は皆片目となり,それを捕る者もいなくなった。その沼を「メッコ沼」というようになった。
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シンエモンイナリ
1956年 宮城県
天明年中(1781~1788)、石巻の親船が江戸から帰航の間際に、松島の新右衛門という者が便乗させてもらった。順風満帆わずか3日で松島湾の寒風沢に入港、家は離島だというので小舟で送ると、島に着いてすぐ姿を消した。島中探したが、そんな人はいないという。不審に思いながら嶋をあとにすると、島の方から狐の欣々という声がしたという。再び江戸に行っての帰り、5隻で鹿島洋にかかったところ、大時化に遭って4隻沈み、この親船だけが助かった。これも新右衛門殿のおかげだろうと、雄島に稲荷の祠を建てて祀った。
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シュゲンシャノタタリ
1956年 宮城県
昔仙台城下東郊に広田甚八という番士がいた。ある時仲間と酒盛りをしていると,盛り上がっている頃に山伏が戸口にやってきて法螺貝を吹き鳴らした。座興を壊された甚八は立腹して山伏に斬りかかり,助命を請う山伏を殺してしまった。翌日甚八はその筋に無礼討の旨を届け,お咎めもなくすんだが,その後行状を改めるどころか益々酒乱と狂気の状が募って遂に座敷牢で狂い死にしてしまった。また,甚八の息子が江戸番馬上役を仰せつかったが,上京の前夜一人の山伏が来てここは広田殿の屋敷かと聞く。そうだと答えると「みんな亡んでしまったと思っていたのに」というので下僕はこれを叱り飛ばし,その旨主人に告げた。主人も親戚も山伏と聞くと顔色を変えて,山伏を捕らえようと飛び出したが,その姿はもはや何処にもなかった。さて当主は江戸到着後間もなく失明して労咳を患い,やがて亡くなった。さらに男子彦兵衛と女子なかも幼くして死に,未亡人は後今市の丹野某の後添となったもののやはり不慮の禍で亡くなった。
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ヤサブロウバアサン,ヤサブロウノハハ,キジョ,ロウジョ
1984年 新潟県
駄栗毛左京が主人の命で使いに行く。沢根まで来ると急に空がかき曇って風が出、諏訪社の森近くまで来ると雷が来て、何者かが馬をつかんで動かさないので後ざまに切ると手ごたえがある。そこに1丈余りもある鬼女が現れて黒雲に乗って逃げる。あとに腕が残されていたが、ある雨の晩老女が訪ね、自分は越後弥彦在の農夫弥三郎の母だといって許しを請い、以降悪事を改めると誓いを立てたので、腕を返す。それ以来弥三郎婆さんは二度と佐渡には姿をみせなかった。
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ヒメコイワ
1956年 宮城県
大平館、城主千葉正右衛門の美しい一人娘の姫のもとへ若殿風の美男が通う。手土産が常に魚なので乳母があやしみ、ある夜、男の袴の裾に針を刺すと、忽ち天候が急変。海は荒れ、男は姿を消して来なくなる。姫は思慕のあまり館の下の海中にある岩の見える岸で男を待ったがむなしく、遂に入水して死す。その頃、気仙沼の南、松岩の海岸に打ち上げられた大鱈の死体に針が刺さっており、若殿はこの大鱈だったと判明。姫が男を待ちこがれた岩を姫子岩と称した。それ以来、毎年初鱈の大群が沖から姫子岩を目指してくるようになり、これを鱈の姫子岩参りという。
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〔オフエタ〕
1956年 宮城県
真野長者に美しい一人娘と、何でも動かせない大牛がいた。蝦夷征伐に来たやんごとない身分の人が泊まり、草刈三平と名乗って住み込み、娘を愛し、牛を軽々と牽き、頼母山で草を刈り、妙なる音色の笛を吹く。その後いつのまにか三平は姿を消す。のちに田から見事な笛が出たので御笛田と呼び、馬もいれず金肥を用い、不浄を忌む。
類似事例

キツネ
1956年 宮城県
医師鈴木氏の談。仙台城下川内三十人町に,勝又弥左衛門という足軽がおり,狐捕りの名人として知られていた。天明の頃,榴ヶ岡の東麓沿いの東街道の辺に古狐が棲み,農家の鶏を攫ったり旅人を誑かしたりしたので,検断所の命令で弥左衛門が妖狐を捕らえることになった。亡父の喪中であったが藩の命令なので支度をしていると,牌所の僧侶が訪ねて来て四十九日も済まない内の殺生を戒めたので弥左衛門は承知した。しかしその後僧に酒飯をもてなすと,いつもに似ず大食であった。弥左衛門がこれを怪しみ,座をはずして門脇の草叢に油鼠の罠を仕掛けておくと,送り出した直後僧がこれにかかった。狐は人を計ろうとしてかえって人に計られたのである。
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