ヒヒ 1991年 山形県 屋敷に化け物が出る。ヒヒのような妖怪だが、1ツ目小僧や鳥の化け物、大入道、顔だけの化け物など様々に化けて、人を驚かして喜んでいた。これが評判になり、見物人が詰め掛けた。お陰で屋敷は高値で売れたが、妖怪は驚かすのに飽きて、いなくなってしまった。
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カイダンノカイ 1938年 東京都 ある男が、怪談会で自分の家にまつわる怪談を話し始めた。ところが、本筋に入る前に黙ったまま進む事がなかった。参加の一同もしばらくは聞いていたが、埒が明かないので散会した。すると、男はその場で気を失い、そのまま死んだ。
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バケモノ 1974年 奈良県 毎夜異物(ばけもの)が現れ様々な怪事をなすという噂が流れた。血気盛んな若者が集まり見に行こうと相談していたところ、ある者がそんな事をすると化物が面白がって増長すると諦めた。
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ヌシ,ダイジャ 1950年 岐阜県 黒淵という深淵がある。そこの主は大蛇で、ある時隣村の寺で受戒があり、大蛇は美女に化けて説法を聞きに行った。和尚が「大蛇が化けて説法を聞きにくるとは奇特なことだ。」と言うと、大蛇は驚き、説法を聞いた後、黒淵に戻らずに姿を消した。
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ノリコシ 1997年 岩手県 ノリコシは影法師のような化け物である。最初は坊主頭で現れる。はっきりしないのでよく見ようとすると、その度にめきめきと大きくなり、頭の方から下へ下へと見下ろして行くと消えるという。土淵村の権蔵という鍛冶屋がある夜、師匠の所に帰ってくると、家の中にいる師匠の女房を覗き見している男がいて、近づいてみたらその男が後ずさりして雨打ち石まで退き、そして急に背が伸び始まった。屋根を乗り越して蔭の方へ消えたという。
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イチクレ 1956年 妖怪や幽霊が姿を現す時刻。主として日中と夜分の境、一日の残照が山の端に消えかかり、空はほの明るく地上はほの昏い、明暗の交錯した妖しいたそがれ時であるという。このひとときは、地上の物象の姿が茫と浮き上がったようにはっきり見定められず、視覚からくる不安定は心の不安をも伴うためか、昔から「逢魔が時」といわれ、諸々のあやしげなものどもがはびこり、歩き回る時刻として恐れられていた。この時刻に淋しい路で人が行きあった場合、知る、知らぬに拘らず、お互いの警戒心をなくすために、挨拶を交わすのが仕切りとされていた。
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タッチャエモト 1956年 妖怪や幽霊が姿を現す時刻。主として日中と夜分の境、一日の残照が山の端に消えかかり、空はほの明るく地上はほの昏い、明暗の交錯した妖しいたそがれ時であるという。このひとときは、地上の物象の姿が茫と浮き上がったようにはっきり見定められず、視覚からくる不安定は心の不安をも伴うためか、昔から「逢魔が時」といわれ、諸々のあやしげなものどもがはびこり、歩き回る時刻として恐れられていた。この時刻に淋しい路で人が行きあった場合、知る、知らぬに拘らず、お互いの警戒心をなくすために、挨拶を交わすのが仕切りとされていた。
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シケシケ 1956年 妖怪や幽霊が姿を現す時刻。主として日中と夜分の境、一日の残照が山の端に消えかかり、空はほの明るく地上はほの昏い、明暗の交錯した妖しいたそがれ時であるという。このひとときは、地上の物象の姿が茫と浮き上がったようにはっきり見定められず、視覚からくる不安定は心の不安をも伴うためか、昔から「逢魔が時」といわれ、諸々のあやしげなものどもがはびこり、歩き回る時刻として恐れられていた。この時刻に淋しい路で人が行きあった場合、知る、知らぬに拘らず、お互いの警戒心をなくすために、挨拶を交わすのが仕切りとされていた。
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メソメソジブン 1956年 妖怪や幽霊が姿を現す時刻。主として日中と夜分の境、一日の残照が山の端に消えかかり、空はほの明るく地上はほの昏い、明暗の交錯した妖しいたそがれ時であるという。このひとときは、地上の物象の姿が茫と浮き上がったようにはっきり見定められず、視覚からくる不安定は心の不安をも伴うためか、昔から「逢魔が時」といわれ、諸々のあやしげなものどもがはびこり、歩き回る時刻として恐れられていた。この時刻に淋しい路で人が行きあった場合、知る、知らぬに拘らず、お互いの警戒心をなくすために、挨拶を交わすのが仕切りとされていた。
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マジマジゴロ 1956年 妖怪や幽霊が姿を現す時刻。主として日中と夜分の境、一日の残照が山の端に消えかかり、空はほの明るく地上はほの昏い、明暗の交錯した妖しいたそがれ時であるという。このひとときは、地上の物象の姿が茫と浮き上がったようにはっきり見定められず、視覚からくる不安定は心の不安をも伴うためか、昔から「逢魔が時」といわれ、諸々のあやしげなものどもがはびこり、歩き回る時刻として恐れられていた。この時刻に淋しい路で人が行きあった場合、知る、知らぬに拘らず、お互いの警戒心をなくすために、挨拶を交わすのが仕切りとされていた。
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オモアンドキ 1956年 妖怪や幽霊が姿を現す時刻。主として日中と夜分の境、一日の残照が山の端に消えかかり、空はほの明るく地上はほの昏い、明暗の交錯した妖しいたそがれ時であるという。このひとときは、地上の物象の姿が茫と浮き上がったようにはっきり見定められず、視覚からくる不安定は心の不安をも伴うためか、昔から「逢魔が時」といわれ、諸々のあやしげなものどもがはびこり、歩き回る時刻として恐れられていた。この時刻に淋しい路で人が行きあった場合、知る、知らぬに拘らず、お互いの警戒心をなくすために、挨拶を交わすのが仕切りとされていた。
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オニ 1939年 長崎県 よいお爺さんが夜中に鬼が集まっているのを見かけ、鶏の真似をすると、鬼は夜明けだと思って逃げ出し、残された宝物を手に入れた。これを聞いた悪いお爺さんが同じようにするが、うれしくて笑ってしまい、鬼に見つかって喰われてしまった。
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ダイホウシ 1974年 鹿児島県 薩州のある人が延宝6年冬の夜道を歩いていると、貝を吹く気配が額に当ってきた。再び当る様子なので、額に刀を構えたら脇にそれた。翌年春亥の刻に座敷にいると、窓から顔が3尺程の大法師が覗いていた。斬りかかったら肩を掴んできた。切っても綿などを切る様だった。「妖者をしとめた」と声を立てたら消えた。
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バケモノ 1941年 不明 お大師様が行をしていると、どこからか「いろはにほへとちりぬるをわか」という音がする。その方へ言ってみると、でかい顔をして目の幾つもある化け物がでかい口をあけて待っていた。化け物はひもじくてしかたがないから、人間を食わせてくれと言う。お大師様はその怪物の口の中に飛び込み生き仏になった。
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ヨウカイ,カイ 1976年 妖怪や怪を見るというのは、こちらが臆病であるとあちらよりむかえて見えることがある。また勇気がある人にも見えてしまう。
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ユウレイ 1933年 大阪府 病院に白昼白髪の老翁の幽霊が出ると噂になり、見物人が集まって盛況となった。しかし、これは光の加減やガラス戸の曇りによって人の様に見えるだけであろうと筆者は分析する。
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ドウシンボウズ 1990年 長野県 夜遅くお宮の下を通ると、「どうしん坊主がでるぞ」と言われた。どうしん坊主の顔を見ていると、だんたんと大きくなっていって、おどかされて自分が倒れてしまう。別に悪さはせず、ただ人をおどかすだけだという。
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キツネモチ 1922年 島根県 ある狐持ちの家で家の修繕のため近所の人を頼んでいたところ、その中の一人が仕事中に不意に倒れて狂気の如くなった。狐持ちの家の事をおおきな声で喋り、狐が今何匹いるなどという。狐がさわったのであるといって品物を持って狐持の家へ御機嫌伺いに行ったら、狂気は治った。
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アシキカミ 1980年 人の家というものは、人数よりも間所が狭く、また夜も明かりをつけて賑やかな方が富み栄える。逆に間所が広くて人数が少なく寂しい家は次第に衰えていく。これは目には見えない悪しき鬼は、人気のない所に付け入ろうとするからである。
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ムジナ 1940年 新潟県 谷で狢が化けて人を困らす。報恩講には乞食姿の男が寺に来て仏米を乞うた。その手には黒い針金のような毛があった。狢退治の若者達は、早鐘・ほら貝などの幻聴を聞いた。富山の薬売りなどの人に化けて出ることもあった。唐辛子を狢の穴の前でいぶすと以来、姿が見えなくなった。
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