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怪異・妖怪伝承データベース
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検索対象事例

ヨウカイ,カイ
1976年
妖怪や怪を見るというのは、こちらが臆病であるとあちらよりむかえて見えることがある。また勇気がある人にも見えてしまう。

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バケモノ,アヤシミ
1976年
怪はそれを見る人の心の影像であり、心が平穏であれば見ることはない。
類似事例

レイゲン,ヘンカイ,ヨウカイ,ユウレイ
1975年
霊験は信じている人にあらわれる。鰯の頭もそれを信仰する人は験を得る。変怪なども同じで、信じていると何でもないものも妖怪や幽霊のように見える。またそのことに関する例証。
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カミノミスガタ
1976年
神の御姿を画くのは、恐るべく慎むべきことである。人の目には見えないから隠身(かくりみ)と言うのを、略して神というのだ。稀に人に諭すことがあって御姿を現す時、我々には老翁童女や大蛇猛獣の姿に見えるが、真の御姿を見ることはできない。神が見えなければ存在しないと思うのは愚かなことだ。
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イチクレ
1956年
妖怪や幽霊が姿を現す時刻。主として日中と夜分の境、一日の残照が山の端に消えかかり、空はほの明るく地上はほの昏い、明暗の交錯した妖しいたそがれ時であるという。このひとときは、地上の物象の姿が茫と浮き上がったようにはっきり見定められず、視覚からくる不安定は心の不安をも伴うためか、昔から「逢魔が時」といわれ、諸々のあやしげなものどもがはびこり、歩き回る時刻として恐れられていた。この時刻に淋しい路で人が行きあった場合、知る、知らぬに拘らず、お互いの警戒心をなくすために、挨拶を交わすのが仕切りとされていた。
類似事例

タッチャエモト
1956年
妖怪や幽霊が姿を現す時刻。主として日中と夜分の境、一日の残照が山の端に消えかかり、空はほの明るく地上はほの昏い、明暗の交錯した妖しいたそがれ時であるという。このひとときは、地上の物象の姿が茫と浮き上がったようにはっきり見定められず、視覚からくる不安定は心の不安をも伴うためか、昔から「逢魔が時」といわれ、諸々のあやしげなものどもがはびこり、歩き回る時刻として恐れられていた。この時刻に淋しい路で人が行きあった場合、知る、知らぬに拘らず、お互いの警戒心をなくすために、挨拶を交わすのが仕切りとされていた。
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シケシケ
1956年
妖怪や幽霊が姿を現す時刻。主として日中と夜分の境、一日の残照が山の端に消えかかり、空はほの明るく地上はほの昏い、明暗の交錯した妖しいたそがれ時であるという。このひとときは、地上の物象の姿が茫と浮き上がったようにはっきり見定められず、視覚からくる不安定は心の不安をも伴うためか、昔から「逢魔が時」といわれ、諸々のあやしげなものどもがはびこり、歩き回る時刻として恐れられていた。この時刻に淋しい路で人が行きあった場合、知る、知らぬに拘らず、お互いの警戒心をなくすために、挨拶を交わすのが仕切りとされていた。
類似事例

メソメソジブン
1956年
妖怪や幽霊が姿を現す時刻。主として日中と夜分の境、一日の残照が山の端に消えかかり、空はほの明るく地上はほの昏い、明暗の交錯した妖しいたそがれ時であるという。このひとときは、地上の物象の姿が茫と浮き上がったようにはっきり見定められず、視覚からくる不安定は心の不安をも伴うためか、昔から「逢魔が時」といわれ、諸々のあやしげなものどもがはびこり、歩き回る時刻として恐れられていた。この時刻に淋しい路で人が行きあった場合、知る、知らぬに拘らず、お互いの警戒心をなくすために、挨拶を交わすのが仕切りとされていた。
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マジマジゴロ
1956年
妖怪や幽霊が姿を現す時刻。主として日中と夜分の境、一日の残照が山の端に消えかかり、空はほの明るく地上はほの昏い、明暗の交錯した妖しいたそがれ時であるという。このひとときは、地上の物象の姿が茫と浮き上がったようにはっきり見定められず、視覚からくる不安定は心の不安をも伴うためか、昔から「逢魔が時」といわれ、諸々のあやしげなものどもがはびこり、歩き回る時刻として恐れられていた。この時刻に淋しい路で人が行きあった場合、知る、知らぬに拘らず、お互いの警戒心をなくすために、挨拶を交わすのが仕切りとされていた。
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オモアンドキ
1956年
妖怪や幽霊が姿を現す時刻。主として日中と夜分の境、一日の残照が山の端に消えかかり、空はほの明るく地上はほの昏い、明暗の交錯した妖しいたそがれ時であるという。このひとときは、地上の物象の姿が茫と浮き上がったようにはっきり見定められず、視覚からくる不安定は心の不安をも伴うためか、昔から「逢魔が時」といわれ、諸々のあやしげなものどもがはびこり、歩き回る時刻として恐れられていた。この時刻に淋しい路で人が行きあった場合、知る、知らぬに拘らず、お互いの警戒心をなくすために、挨拶を交わすのが仕切りとされていた。
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ユワタシガミ
2001年 鹿児島県
ユワタシ神は、怪を見るような人には見えるという。
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オニ
1976年
人を鬼に譬えるのは、武勇に長けた人、容姿は美しいが心が醜い女、心は醜くないが生まれながらに顔が赤く、目口が大きく、歯の出たような恐ろしい顔をした人と三通りの場合がある。本当の鬼もこのように形が定まったものではないのだろう。
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オミコシ
1955年 静岡県
お見越しという妖怪が出る。道を通ると優しい人がいて、話をしているうちに話の様子によって大きくなって見せる。
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アヤシキモノ
1974年
怪しいものを見てそれを怪しいと感じなければ、その怪はおのずから消滅する。
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ジンコン
1953年 群馬県
人魂を見ると悪いことがある。人魂を見ると出世しない、若いうちに死ぬなど。人魂が家に入るとその家の人が死ぬ、あるいは赤ん坊が生まれるなどと言われる。
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キ,ユウレイ,エンキ
1975年
人が死んで魂魄がまだ散じる前は、寃鬼となって人間の目にも見える事がある。それを日本では幽霊と呼んでいる。寃鬼が見える時は雲や霧のようだが、雲霧も天地の気が集まったものであるのと同様に、寃鬼も気が集まっているので見えるのだという。また、死んで長年経ってから見えるのは狐狸の妖怪である。
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ミコシニュウドウ
2000年 京都府
京の夜道で大入道の怪に出くわしたものがいた。おろかな人が臆病風にふかれて、夜道で気の迷いから影ぼうしを見間違えたのである。
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ヨウ,キシン,ヨウカイ,キツネ,タタリ
1977年
怪しいこととは人の心によっておこる。昔、駿府の城に姿の見えない狐がいた。手拭を与えるとそれを取って踊った。強く握っていても必ず手拭が取られると聞いてある剛毅の人が試したところ、その気迫によって手拭は取られなかった。
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カナブイ,カナブヤア
1934年 沖縄県
まじものや生まぶい・死まぶいを、かなぶいあるいはかなぶやあは見ることができる。これは特別な能力をもっている人である。普通の人もかなぶやあの袖を通せば、幽霊や化物が見える。かなぶやあが生物を屠ると、首を切られ皮をはがれても絶命せずに駆け出すことがある。
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カミカクシ,テング,ムジナ,キツネ
1929年 石川県
神隠しに会ったりすると、幾人もの人がその人の名を呼び、幾つも高張を灯し、太鼓をたたいて探す。狐やむじなや天狗は太鼓の音を嫌うからである。
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コリ
1935年 兵庫県
狐や狸が化けたものは、逆なですると毛がざらつくのですぐにわかる。また股間から覗くと化けたものの裾がぼやけて見えるという。
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