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検索対象事例

ツグノブ,ボウレイ
2001年 香川県
石屋和尚が八島の浦を渡るときに次信の墓を見て、「あわれなり名をはのこせる次信かはかは八島の浦にこそあれ」と読むと、次信から、「哀れとも事問う人のはかなさよ身を捨ててこそ名を残しけれ」と返歌があった。

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ツグノブ,ボウレイ
2001年 香川県
奥州の佐藤次信の末裔が、永徳年中に西国巡礼中に、佐藤次信の墓にやってきて「痛や君の命に次信の印の墓は苔ころも着て」とよむと、「惜しむともよもいまてはなからえし身捨こそ名をはつきのふ」と空に返歌があった。
類似事例

ツグノブ,レイ
2001年 香川県
至徳元年に、奥州の佐藤一門の空信という僧が、佐藤次信の墓に来て、「痛わしや君の命をつぎ信がしるしの石は苔衣きて」と追悼の和歌を詠じた。空信はこの石碑の辺りに一夜泊まったが、その夜に次信の霊が現れて、「惜しむともよも今迄は存らへし身を捨てこそ名をばつぎ信」と詠んだ。
類似事例

ツグノブ,ボウレイ
2001年 香川県
奥州の佐藤一門の末裔である信空という僧が、八島壇ノ浦の石塔に向かい「いたはしや君の命を嗣信かしるしの石は苔衣きて」と歌を詠むと、石塔から、佐藤嗣信の亡霊が「惜しむともよもいままてはなからえし身をすててこそ名は継のふ」と返歌した。
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ソカク,アマゴイノク
1974年 東京都
俳諧師である其角と長游の二人が、紀伊国屋文左衛門に誘われて吉原に向かう途上、小梅村のあたりで人々が雨乞いをしていた。そこで文左衛門が雨乞いの和歌があるように、俳諧で雨乞いができるかと其角にいう。そこで其角は降らざれば身を川に沈めようとの覚悟で詠んだところ見事雨が降ったという。命捨てるほどの誠があればこそ、天地を動かし鬼神を感じせしめるのだと語った。
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サネカタヅカ
1956年 宮城県
在中将藤原実方は長徳元年(995年)3月、東山の桜狩りに「桜狩り雨はふり来ぬおなじくは濡るとも花の蔭にかくれむ」と詠み、絶唱と称えられたが、衆の前で藤原行成に「歌が美しいがおこの者なり」とけなされ、実方は怒って行成の冠をつかみ、紫宸殿の廊下に投げる。一条天皇の怒りにふれ、陸奥の歌枕見て参れと陸奥守に遷され、多賀国府に下る。同4年11月、出羽に阿古耶の松を訪ねての帰途、名取郡笠島の道祖神の社前を通り、邪神として乗り打ちしたところ、馬が棒立ちとなって落馬し、今、仮宿と称する民家で死ぬ。享保7年(1722)11月4日五代藩主吉村が詣で塚を修築。
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シリョウノハカ
1987年 長野県
享保(1716~1736)頃,ある日の夕方,一人の行者がこの村で宿を探したが,どの家でも泊めてくれなかったので,行者は村はずれの崖から落ちて死んでしまった。間もなく妻が死骸を引き取りに来て,村の薄情さを罵り,「たたれ,たたれ」と呪ったので,この村に流行病が流行った。そこで死霊を慰めるため明治32年2月に石宮と墓を建てた。
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タケベラタロウ
1956年 宮城県
昔、巡礼の和尚さんがある村に入ると、1人の娘を真ん中にして家内中泣いている家があった。毎年秋の稔りのとき、向こうの山の神様に若い娘を人身御供として供えねば、田も畠も荒らされる、今年はこの家の番だという。和尚さんがその山の社に隠れていると、夜になって大勢の者がやってくる音がして「あのことこのこと聞かせんな。竹箆太郎に聞かせんな。近江の国の長浜の、竹箆太郎に聞かせんな。」と歌う。和尚さんは近江の国へ捜しに行くと、竹箆太郎とは小牛のようなブチ犬だった。和尚さんは竹箆太郎を連れて帰ってきて娘の身代りに長持の中へ入り、やってきた者たちと対決した。翌朝村人たちが行ってみると多くの猿が死んでおり、針金のような毛をした一番大きな猿が竹箆太郎にのどを深く噛み切られて死んでいた。それからはみんな安心して暮らすことが出来た。
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フルハカ,アカゾメエモン
1931年 山梨県
韮崎の近くにある某寺に古墓があったのを取り払おうとすると、僧の夢に貴女が現れ、「なき跡のしるしとなれば其ままに問はれずとても有りてしもがな」という歌を書いた短冊を残して去ったという話がある。後の鑑定でこの短冊は赤染右衛門の筆跡であるとされた。
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エンマドウヨコチョウノカイ
1956年 宮城県
昔石名坂下・船町の辺りに遊女屋が栄えた頃,石名と名乗った遊女が自分の罪障消滅のため,死後自分の墓石を橋の一部として通行人に踏んでもらってくれるよう遺言したが実行されなかった。その後墓石が倒されたままになっているのを近所の請負師が見かねて円福寺に移してやったが,遊女の霊は遺言通り石橋にされないのを怨んだものか,余計なことをするなとばかり請負師の妻の夢に毎晩現れて望みが叶えられるまで悩ましつづけた。その石碑が現在どうなっているかはわからない。
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オンリョウ,ボウコ
1975年 新潟県
友崎という家号の家の主が旅の者を舟に乗せ、沖で殺して金品を奪った。それ以来、相川通いの舟が夜の海を通ると、死人の手が舟べりにかかって、青白い顔が舟の中をのぞき、「友崎はおらぬか」と問う。いないと答えると、残念と一声うめいて海に消えるという。
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イシガミサン
1985年 香川県
志々島の阿部次郎左衛門という人が沖で網をうっていると、石がかかった。捨ててもまた網にかかることが二度三度続いたので、海に返さず筏石の上に置いた。その石が、夜になると、吉田へいこう、と夜泣きした。そこで吉田に運び、石神さんとして祀った。
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ロクブノモッテイタアワ
1989年 鹿児島県
藩政のころ、上村の番所を通ろうとした六部とその娘が通過を許されずにダグリの先の岩から入水自殺したので、今このあたりの瀬を六部瀬というが、この六部の持っていた粟が普段は草も生えぬダグリのあたりで芽を出し、人々は驚いた。90歳くらいの人はだいたい、その粟を見たという。今はもう生えない。下村の人たちが建てた六部の墓が、昔の墓所だった所に今も建っている。台風の時に墓のあたりの土から巡礼の持つ鈴が出てきたという。六部うらみの歌という辞世の歌もある。
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ヨウマ
1929年 香川県
旅先で出会った上臈と恋に落ちた男は、故郷に連れて行こうとした。しかし嫉妬深い女房が怖くなり、上臈を島に置き去りにした。無人島に残された上臈は、あえない最後を遂げた。それからは女の怨霊がでて、この島に近づく舟で無事帰れたものはまれであった。
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ボウレイ,カゲキヨ
1977年
ある人が日向国の宮崎郡下北方村の景清の旧跡を訪れ歌を詠んだ。そのことを聞いた人が後にそこへ行ったときに見に行ったところ、80歳位の老人が現れ返歌を託した。
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フエノネ
1961年 山梨県
昔、三富村の上釜口に権三郎という若者が母と共に住んでいた。ある年の暮、大洪水で母は死に、権三郎は母親の好きな笛を吹いて笛吹川を探し求めたが、世をはかなんで笛吹川に身を投げて死んでしまった。権三郎の死体は春日居村小松に漂着し、村人は厚く葬った。権三郎の死後、笛吹川には笛が絶えず、村人は権三郎の亡霊ではないかとおそれ、長慶上人が供養して長慶寺の脇に権三郎塚を設けた。地元の三富村にも、権三郎の孝行を慕って権三郎不動と称して、祀っている。
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オシドリ
2002年 栃木県
鎌倉の頃深七という猟師が、鴛鴦を射て首を射切った。共にいた女の鴛鴦はその首をくわえて水底深く潜った。その夜深七は酔い伏していると、鴛鴦が枕辺に来て何かを言い、泣いたので目がさめた。そのようなことが幾夜も続き、最後に「安蘇沼で菰に隠れて独り寝するのはつらい」という意の歌を詠んだ。深七は安蘇沼に行き、さまよっている鴛鴦を射ると夜毎に来る鴛鴦だった。その鴛鴦は前に射切った鴛鴦の首を抱いていた。深七は発心して沼の辺りに庵を結び、懇ろに弔い、塚を営んだ
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チュウドノセイレイ
1974年 群馬県
上野国平井で、ある僧が桜を見ながら忠度の歌を吟じたところ、忽然と50才位の身分の高そうな佩刀した人が現れ、歌の字の読みの清濁について尋ねて消えた。僧は忠度の精霊だろうと思い、その場所に墓を建てた。
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カラス,マツ
1965年 兵庫県
中国から竹野の切浜に着いた昆山和尚という人は、三浜で亡くなった。その場所に生えた大きな松に烏が止まって鳴くと、必ず人が死ぬという。
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ミナモトノヨリマサ,ツボ
1974年 茨城県
源頼政が自害する時、郎党に首を隠して持ち歩けと命じ、もしもその場に居たいと思う所に来たら何らかの験を示すと言った。遺言通り郎党が首を壺に入れて諸国を遍歴すると、下野国古河で首を入れた壺が持ち上がらなくなったため、その場に葬り、社を作って「頼政明神」と崇めた。
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リョウシノボウレイ
1982年 宮城県
漁師が難破して覚悟を決め、供養の金を胴巻に巻いたまま浜に打ち上げられた。見つけた人は金だけとって死体を海に打ち捨てた。金を取った人は金持ちになり、子どももできて幸せだったが、子どもがいなくなってしまった。回国様に聞くと恐山にいるという。行って寺の和尚に相談すると、「その子を呼んでやるがわしの衣の陰から出るな、決してすがるな」という。やがて子どもが来て和尚に「自分は漁師の亡霊の生まれ変わりだ」と言った。金を取った人が泣き崩れ、気がつくとそこは寺ではなく衣杉の下にうずくまっていた。その人は家には帰らなかった。
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