テング 1991年 奈良県 天狗が飛んできてとまると言われていた天狗松という立派な松があった。その松が戦争中に枯れた。そうしたらある物知りの人が「天狗松が枯れたから日本が負ける」と言った。
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ヒハラヤサク 1990年 山梨県 日原やさくは1年に2日、1年間のお祈りをする。霊感が強く、養蚕が当たるとか、このうちの誰々がいつ病気をするとかいった。日原きぬ子氏は長男が8月に暑気を受けて寝込むと言われ、その通りになったり、郵政省に入ってからも、なくし物をしたときに犯人を当てたりして出世した。
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ヒトダマ 1990年 山梨県 日原やさくという芹沢出身の法印は天科に姪がいて、そこで寝ていたが昭和18、9年に亡くなった。日原きぬ子は、その夕暮れ、日原政重家と日原福重家の間の屋根にポカッとお月さんくらいの人魂を見た。声を上げるとお婆さんが何事かと飛び出してきて、その浮いていたのがポカッとまた消えた。後で聞くと、それはちょうど亡くなった時間だった。信者の家へお別れに来たのだろう。小姑さんと日原きぬ子だけが見た。
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サクラ 1935年 栃木県 桔梗城の茂木氏が滅んだ時、援軍の宇都宮氏の将が、間に合わなかった悔しさに鞭を投げ捨てたところ、その鞭が根付き、いつしか桜の木となった。残念桜と呼ばれている。
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ヤシマノハゲダヌキ 1922年 香川県 屋島の禿狸は源平屋島合戦の時、木の上に登って戦を見物して行ったのでその一部始終を知っている。その後禿狸は八栗寺に移して、屋島の合戦を演じて四国における狸大将として暮らしていたが、ある時狩人に殺されたという。これは禿狸が死後人に乗り移って話した身の上話という。また祖父母の話では、嘉永安政頃、阿波西林村の女髪結の体を借りて、吉凶その他を予言したり、他の狸憑から狸落しをしていたという。日清日露戦争では多くの乾分を従え、満州へ出征して大いに働いたという。
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(ゴダイゴテンノウ) 2002年 京都府 『太平記』巻25「天龍寺事」によれば、後醍醐天皇率いる南朝勢力との戦いに勝利し、足利幕府を開いた足利尊氏・直義に対して、ある人物が言うには、近年天災が頻発し、これは後醍醐天皇の御神霊が激しく憤っているからである、と。そしてこれを人力によって収めることはできないので、天竜寺を造営しその菩提を弔うと天下は静かになると言う。
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タヌキガッセン,カネナガ,ロクエモン 1922年 徳島県 天保年間に名東群斉津村から勝浦郡小松島町にかけて山間に多くの狸が負傷して死んでいったが、それから間もなく日開野村の狸が人に憑いて、狸合戦の詳細を物語ったという。それによると日開野村の金長という狸と名東群津田浦の六右衛門という狸の合戦で、国内の狸は全部集合して2派に分かれて戦ったという。雌雄を決せぬうちに2匹とも死に、2代目金長と六右衛門の子が日開野で弔い合戦をし、讃岐屋島の禿狸の挨拶によって和解したという。
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ジングン,タクセン 1983年 大分県 この年に征夷が行われ、大隅・日向の2国が乱逆した。そこで内裏から宇佐八幡宮に御祈誓があり、八幡宮の禰宜が神軍を引率して両国を征し、敵を滅ぼした。その後、この合戦で多くの殺生をしたので放生会をするよう神託があり、諸国に至るまで放生会を行うようになったという。
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マサカド,クビ 1995年 将門の首が入洛する時、将門の軍隊がやってくるというデマが飛び、大騒ぎとなった。
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(アタケマル) 1979年 安宅丸が伊豆へ帰るとうめいたと伝えられている。その声はどのようなものであったかはあきらかでない。
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ダイジャ 1964年 福島県 田原藤太秀郷は平将門の愛妾桔梗の前と恋仲になり、影武者の見分け方を聞き出して将門を滅ぼした。桔梗の前は秀郷を恨み、生国伊達郡藤田村を訪ねたが、秀郷の行方はわからず、蛇身になって菅沼の主となった。人身御供をよこさないと村を泥海に変えるというので、村人は金を集めて娘を買いに行く。下総の周防という浪人が主君の年忌供養のために娘を売った。周防の耳にも人身御供の話が聞こえ、大蛇退治に出かけ、白鳥明神の神通のかぶら矢で大蛇を退治した。この噂を湯野村の阿部道学親子が聞き、武名を上げようと襲ってきたので返り討ちにした。周防は茂庭の領主となり、大蛇と阿部親子の首を祀ったのが三社権現。
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クチヨセ,オイチ 2003年 山梨県 大正元年生まれの女性は、在米の生存していた父をオイチに呼び出してもらった。生きて会うことがないことを予言。
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キサエモンタヌキ,ハゲダヌキ 1985年 愛媛県 喜左衛門タヌキがはげダヌキと化けくらべをすることになった。はげダヌキは源平合戦を見せた。喜左衛門はかなわないと思い、神通力を働かせて紀州の殿様が来年の春、お国がえりすることを知った。喜左衛門は来年の春、紀州の見返りの松で待つように言った。はげダヌキはその日に行って待つと、殿様の行列が来た。喜左衛門が化けたと思い、行列の前に出て切られてしまった。
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〔ウスグモヒメ〕 1961年 愛媛県 山内式部大輔の娘は薄雲姫という美女だった。結婚の申し入れをはねつけたために戦になり、姫は風透山に落ちのびた。そのうち姫の元に男が通うようになったが、姫が二世の契りを申し出たところ、男は立ち去った。姫は男の裾に糸をつけ、後を追っていくと、風透山の風穴に入って消えていた。姫は驚き、その後病気になって死んだ。
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インカ 1929年 新潟県 天正七年上杉景勝の勢が城山高津谷の城を攻め寄せた。その時土ヶ谷村の老女が城内への用水の道筋を密告した為、それを聞いた上杉方は土中を探し其樋を切ってしまった。城兵は渇きに苦しみ勢力は衰弱して、炎天に進撃され落城した。その辺りで高津谷氏の宝物を埋めた榎の下では深夜陰火が燃えるという。
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オイナリサン 1938年 兵庫県 王地山のお稲荷さんは戦争になったらすぎ御出征になると昔から言われ、1人のお稲荷さんが千人に見えるという。西南の役にもご出征になった。
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グンジンカゴ 1976年 奸佞闇愚臆弱の足利尊氏が、楠木正成や新田義貞に勝てたのは、筑前国宗像神社で大祭祀を執り行い、軍神の加護を得たからである。義貞は優れた武将だったが、武勇知略を誇り、重い神祭の必要性に気付かなかったため、軍神の加護を得られなかったのだ。神幽政事は人智の及ぶところではない。
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サネカタヅカ 1956年 宮城県 在中将藤原実方は長徳元年(995年)3月、東山の桜狩りに「桜狩り雨はふり来ぬおなじくは濡るとも花の蔭にかくれむ」と詠み、絶唱と称えられたが、衆の前で藤原行成に「歌が美しいがおこの者なり」とけなされ、実方は怒って行成の冠をつかみ、紫宸殿の廊下に投げる。一条天皇の怒りにふれ、陸奥の歌枕見て参れと陸奥守に遷され、多賀国府に下る。同4年11月、出羽に阿古耶の松を訪ねての帰途、名取郡笠島の道祖神の社前を通り、邪神として乗り打ちしたところ、馬が棒立ちとなって落馬し、今、仮宿と称する民家で死ぬ。享保7年(1722)11月4日五代藩主吉村が詣で塚を修築。
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ノマノロウバ,タタリ 1965年 愛媛県 重茂山で戦があったときに、水不足になった。敵は兵糧攻めにしたが、城主は蔵から米を滝のように流して水があるように見せかけた。しかし、野間の老婆が米を流していることを密告したため、重茂山は落城した。この老婆の家は、祟りで悪くなったといわれている。
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タロウイナリ 1983年 東京都 立花左近将監が朝鮮出兵の際、石田三成の讒言によって豊臣秀吉の勘気を蒙った。その時立花は本国に帰らずに、江戸の浅草観音の前に移住すること8年に及んだ。そしてある夜の夢に白髪の老人が現れて、白木の三方に祇園守を載せて与えた。この老人が太郎稲荷であった。その翌日に徳川家康から召状が届き、本領を安堵されたという。
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