〔シンオウ〕 1977年 光仁帝天応元年5月5日に、異国の凶族が攻めてきた。第2皇子の早良皇子が真幡寸(まはたき)神社に祈誓すると、神応の験があって、にわかに大風が吹いて、賊はことごとく海に沈んでしまった。
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タタリ,ユキヨシサマ 1935年 長野県 宗良親王の子、尹良親王が松尾村を通る際、草履の紐が切れたので、一足譲ってくれるよう百姓に頼んだが断られ、裸足のまま去って、山中で土匪に殺された。その後、松尾村では祟りで、足を病む者が絶えなかったため、『ゆきよし様』といって社に祀られた。
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ハウライ,ウラシマタロウ 1983年 京都府 雄略天皇22年3月3日に、浦島太郎が釣りをしていて蓬莱に至り、そこの姫と契った。その間に347年が過ぎ、天長5年4月に帰ってきた。
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ニワトリ 1929年 岩手県 明治二十九年、高貴な人が岩手の磯村に流鏑の身となり、月をながめておられたが、幽憤のあまり海中に身を投じて亡くなられた。里民はいたく悲しみ遺体を捜索するのに家鶏を舟に乗せて出ると、或る所で鶏が高く鳴いた。果たしてその場所に遺骸を発見することができた。高貴な方は垂仁帝の第二皇子是津親王である。
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イヌ,ヒヒ 1989年 長野県 信州にたどり着いた六部は方々探して、光前寺にたどり着き、早太郎を借りることができた。氏神に娘が箱に入れられて運ばれる際、身代わりに早太郎が入れられた。翌朝宮に行ってみると、そこいら中血まみれで、血の跡をたどっていくと大きな銀色のひひが噛み殺されていて、早太郎はどこにもいなかった。血まみれの早太郎は寺にたどり着き、住職の顔を見て一声鳴くと息を引き取った。早太郎の墓は今でも光前寺にある。
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アクリヤウ 1983年 京都府 将門の征伐に加わった平忠文は勅賞が与えられず、憤死して悪霊となった。そのため、勅賞を与えぬよう進言した清慎公の子孫は少なくなった。また忠文の孫である一の皇子をさしおいて東宮にたった冷泉院は、忠文の死後に物狂わしくなり、院の子孫にはいずれも不幸が起きた。かの悪霊の仕業だろう。
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キツネ 1979年 京都府 応永27年9月10日、室町殿医師高天父子および弟が、狐を使って呪詛をしたとして捕らえられた。同年10月9日に3人は讃岐国へ流された。
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シマムラガニ 1923年 兵庫県 尊良親王の御息所匣の前を家臣である島村武文が供奉して土佐へ渡航するとき、海賊に御息所を奪われ、武文は斬死を遂げた。その怨霊が島村蟹または武文蟹になったといわれる。
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ワカミヤ 1977年 謀反の罪に問われた井上内親王の母は、妊娠中にもかかわらず、押籠の刑にされ、そこで男子を出産した。そこは大岡郷小山と言ったが、それから産屋が峯と言う。その御子は名を雷神といい、成長して井上内親王達の一件を聞き、ふかく恨んで、怒りのあまり死んだ。霊は雷となって都を襲ったので、霊をなぐさめるために、神に祀り若宮と名付けた。
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ダイギョ,アクギョ 1999年 香川県 景行天皇の御代、土佐の海に悪い大魚がいた。天皇はヤマトタケルノミコトの子供の霊子に討伐を命じた。霊子は悪魚を退治し、褒美として讃岐の国司になった。その悪魚の祟りを畏れて悪魚堂を建てた。
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タタリ 1957年 熊本県 人吉城が攻め落とされた際、山田城の長続が城を奪い返して堯頼を帰城させようとしたが堯頼が死亡した為、長続が後を嗣いだ。その後、城を攻めた頼観兄弟を滅し、その首をさらしたところ祟りがあった。
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エイゾンホウイン 1956年 宮城県 栄存法印は高僧として衆人の帰依が篤かったが,笹町家当主新左衛門頼重が嫉んで讒訴を行い,寺領を悪田とすり替え,住民に神域を掠めさせた。遂に江ノ島に流罪された法印は,笹町家一味及び石巻湊町に対し呪詛の修法を勤行したので,湊町にはしばしば大火が起こった。但し法印を庇護してきた高橋某家のみは災いを免れた。3年後の天和元(1681)年二月,法印は「口に鰹節を挟み,湊町を望む地に身を逆さまに埋めよ」という遺言を残して死ぬが,島民がこれを守らなかったところ関係者が病気となり,島に不漁や凶事が重なったため,改めて遺言通りに埋葬し供養を行った。埋葬場所は現 栄存神社。一方,笹町家では法印の呪いによって当主頼重がしばしば栄存の幽鬼に襲われ,自分の肢を斬ったり息子彦三郎安頼や妻女を斬殺したりした上,発狂した。九族も死に絶えた。享保頃(1716~36),法印の赦免を請い,霊を牧山に移して長禅寺に栄存神社として祀った。今でも旧2月6日の命日を御縁日として祭を行う。
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カンノンサマ 1981年 神奈川県 大塔宮護良親王が首を切られる前、村人に観音様を預けて、難波で祀ってほしいと言ったが、観音様は酒匂に帰りたいと言うので、観音様と縁のある南蔵寺へお連れすることになった。
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(チゴノタタリ) 1989年 長野県 中山道を通って京都から稚児が逃れてきた。どっちへ行けば逃げられるかと問うので道を教えると、向方から坂部へ向かった。向方の百姓が後をつけると、追いつめられたと思った稚児は坂部の天竜川の渕から身を投げて死んだ。百姓たちは稚児の太刀などを盗んだが、やがて疫病などの祟りが襲いかかったので、小さな祠を建てた。
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ゴリョウ 2000年 京都府 応永25年に足利義嗣は兄義持によって林光院に幽閉中に殺される。応永31年6月14日に、将軍足利義量が病臥したおりに、「故林光院御事」をしばしば口走った。義持は義嗣の怨念であろうかと思い、醍醐の満済に相談したところ、ひたすら故林光院の霊を弔うことが大事という意見であったので、7月4日から7日間将軍義量のために将軍御所において愛染護摩供に法華供、光明真言供をあわせた祈祷が修された。
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ヤマガミョウジン 1956年 宮城県 山家清兵衛公頼は伊達家に信任され、長子秀宗の懐守役となり、元和元年(1615)秀宗が宇和島十万石の封に就くとき、付け家老として従う。公頼の忠誠は上下の信頼を集めたが、家老桜田監物がそねみ讒訴したので、秀宗は公頼の屋敷を襲って殺させる。時に元和5年(1619)6月晦、公頼は死すともこの冤を雪ぐといって死ぬ。その夜仙台城の政宗の前に血まみれの公頼の姿が現れ、冤を訴える。政宗は怒って秀宗を勘当、監物以下次々に変死する。宇和島に和霊明神を建てて祀り、仙台にも立町通東二番丁南角の山家氏邸内に山家明神を建て、毎年6月晦に祭りを行なう。公頼が蚊帳の釣り手を切り落として殺されたというので、昔この夜は蚊帳をつらなかった。
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ネコ 1976年 熊本県 イエイヨホウインというお坊さんが謀反の疑いで切腹させられたが、無実であった。その妾のひとりがそのことを恨みに思って、猫に「仇はとっておくれ」と願いを込めて、その猫を道連れに自殺した。以後、切腹を命じた相良侯の家では不思議なことが起きたので猫寺を建てた。
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オショウ,タタリ 1985年 愛媛県 正徳寺の某和尚は、政治向きの儀を誹謗したため、今治藩家老達に簀巻きにされ海中に沈められ殺害された。後に天明の頃に藩主に祟りをなしたので、八幡社の左側に小社を建てて怨霊神として祀った。
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テング 1976年 崇徳天皇は怨念により生きながら天狗の姿になった。
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テンチュウ 1980年 大阪府 河内国穂谷というところにある一向宗の寺の或る僧は大変な親不孝であった。或る年、京都の本山にいた時、母が死んだという知らせを受けたので、寺から葬式の費用を借りたが、それを遊興で使い果たす。その後河内に帰ったら、しばらくして病となって不自由な身体となる。これは天誅と言えるだろう。
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