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怪異・妖怪伝承データベース
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検索対象事例

アクリヤウ
1983年 京都府
将門の征伐に加わった平忠文は勅賞が与えられず、憤死して悪霊となった。そのため、勅賞を与えぬよう進言した清慎公の子孫は少なくなった。また忠文の孫である一の皇子をさしおいて東宮にたった冷泉院は、忠文の死後に物狂わしくなり、院の子孫にはいずれも不幸が起きた。かの悪霊の仕業だろう。

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レイ,ボウコン,オンネン
1975年
武蔵国多摩郡中野に陣取り、奸計により討死した平将頼の霊が戦場にとどまり人々に祟をなした。480年程の間怨念は残っていたが、延文の頃一遍上人の3代目真数坊が芝崎村に草庵をつくり供養した。後の神田橋日輪寺である。また将頼の兄将門を神にした。東国に祟をなした霊は将門ではなく将頼のようだ。
類似事例

ユウレイ
1974年
ある人の召使の小姓が、さしたる科もないのに処刑された。以来その家に小姓の霊が現れ、多くの人に目撃された。嫡子が病にかかり、仏神を祈る験で病は治ったが、幽霊は出続けた。3年後その家は断絶したが、小姓の霊が原因であろう。
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タタリ
1974年 福島県
奥州菊田郡下河村の江尻惣右衛門は、子の平四郎を羽黒権現の社僧長明寺へ預けた後に、長明寺に金を借りて証文を平四郎に盗ませた。そして守護の元で訴訟になった際に、証文がないせいで長明寺は敗れた。長明寺は損をするばかりか、守護の前で面目を失った事を恥じ、死して祟ると言い残して死んだ。その33回忌が過ぎて、子の惣右衛門が体調を崩し、その当時の長明寺に祈祷を頼んだら、先の長明寺が神子に憑いて一族を全て殺すと述べ、祈祷をした僧もろとも一族全て死んだという。
類似事例

オンリョウ
1976年 京都府
冷泉天皇は民部卿元方の怨霊により狂乱された。
類似事例

ドウジキリマル,オンネン,オンナ
2002年 滋賀県
松平忠直乱行の原因についての諸説のうち、もっとも有力なのは伊吹童子を切った妖刀童子の怨念であるという。忠直は伊吹山の麓の宿場で見初めた側女の言うがままに鬼畜の振る舞いを重ね、やがて豊後へ追放された。この女は童子切丸が呼び寄せた伊吹童子の化身だったのかもしれない。
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タタリ
1957年 熊本県
18代頼房が立って間もなく、祖父の頼興が死んだので、頼房の父春広の弟にあたる頼孝、頼堅、長蔵の3人が、頼房を殺して領土を3分しようとした。頼堅は敗れて殺され、頼孝はかこまれて自殺した。頼孝の霊は甚だ祟りをなした。
類似事例

オンリョウ,ウジアクサフ,キタノテンジン,サヌキイン,オキノイン
2002年
『太平記』巻25「天龍寺事」によれば、宇治悪左府(藤原頼長)・北野天神(菅原道真)・讃岐院(崇徳上皇)・隠岐院(後鳥羽天皇)はそれぞれ怨霊であったが、それぞれ贈官・奉爵・追尊号などし、また廟所などを建ててまつることで、みな王朝鎮護の神となったという。
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ユウレイノシュッサン
1956年 宮城県
藩政時代,金山邑主中島伊勢の家臣に四十九院(ツルシ)弥五左衛門という侍がいた。隣家の美女に懸想され,当惑していた。ある春の斗蔵山の観音様の祭礼の時,娘が弥五左衛門に恋情を訴えると彼はかっとなって娘を斬りすててしまった。ところがその後,夜毎に娘の亡霊が現れて切なさを訴えるので,余りのいじらしさにいつしか娘の亡霊と契る仲となってしまった。ある夜亡霊が「身重になった。赤子が生まれるから育てて頂きたい」と懇ろに頼んで消えてしまった。それから一周忌の頃に弥五左衛門が娘の墓参に行くと,地中から赤子の鳴き声が聞こえる。掘ってみると棺の中で生まれたばかりの赤ん坊が泣いていたので,連れて帰って大事に育てた。この事が藩侯の耳に達し,惨殺の罪を罰せられぬばかりか,奇特な事として禄をも与えられた。その子孫は今も四十九院を姓にしている。
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ボダイジュノタタリ
1988年 茨城県
平将門の乱で敗れた武将のお姫様が奥州に逃げる途中で死んでしまい、7人の家来もそこで切腹した。親鸞上人が哀れがり、そこにぼだい樹を植えた。それが話者の家のぼだい樹で、枝を折ると災難があると言う。ある人がぼだい樹から蜂の巣をとったら、話者の妹がひきつけをおこした。行者にお祓いしてもらったら治った。
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ダイジャ
1967年 福島県
菅沼平というところがあり、今は水が無くなり谷地になっている。承平年中、平将門の女弟がこの国に来たのだが、藤原秀郷のために嫉妬の恨みにより自害した。その魂は大蛇になり菅沼に住み、建久年中になり、人身御供をとるなどして村人を苦しめた。ところが白鳥大明神の霊験により大蛇を射殺することができた。大蛇を退治して帰ってきたところを来の原といっているが、今は北の原ともいっている。
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ハナサキイシ,ヤマトタケルノミコト,アクゼイ,アクレイ
1935年 群馬県
日本武尊が奥上州にやって来たとき、山に悪勢という魔神が住み、朝廷に背き人民を困らせていたので成敗した。神通力で戦いながらも敗れた悪勢は、山に包囲されて焼け死んだ。その娘は清純な処女だったが、武尊の軍勢に阻まれ自殺した。彼女の従者は哭き死んで、その亡魂が石となり、花が咲いたという。それでこの石を花咲石といった。悪勢らの悪霊は祟りをなしたが、石神として祭ると止んだという。
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タタリ
1957年 熊本県
人吉城が攻め落とされた際、山田城の長続が城を奪い返して堯頼を帰城させようとしたが堯頼が死亡した為、長続が後を嗣いだ。その後、城を攻めた頼観兄弟を滅し、その首をさらしたところ祟りがあった。
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チノデノマツ
1967年 福島県
岩城判官正道公が謀反人として殺され、その夫人は一男一女をつれて放浪していたが、海賊に二人の子を奪われ、後この地で死んだ。海賊に奪われた兄弟と別れ別れになった安寿姫は悪者の手から逃れたが、飢えと疲れで世を去った。これをあわれんだ村人は、なきがらを埋め松を植えて祠を建てたが、ある村人がこの松を切ろうとしたら、切り口から血が流れた。直後には切り口すらなくなって元通りになっていたという。
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ヘビ,キヨヒメノタタリ
1979年 愛媛県
土佐の長曽我部氏に攻められた勧修寺本詮の娘清姫が山中に隠れていた。欲深い猟師が恩賞に目がくらんで、長曽我部の兵に姫の居場所を教え、追いつめられた姫は自害した。猟師が家に帰ると、何度捨てても殺しても白い蛇が来た。子供が生まれても死ぬか体が不自由だったので法師に見てもらったら、清姫の祟りだった。
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シチニンミサキ
1965年 高知県
長宗我部元親の長男が島津征伐で戦死し、次男と三男が家督争いをして、次男と7人の家来が殺された。その7人が成仏せず、風になってさまよっているのが七人ミサキ。
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テング,タロウボウ
1976年 京都府
愛宕山の太郎坊は、洛陽正六位紀朝臣御国の子で、高雄の真済(しんさい)である。柿本の僧正と号した。天安の帝が病にかかった時、真済は加持を行なったが、効き目がなく、帝は亡くなったので、いつも不愉快であった。また、俗には、染殿の妃に会って、恋をしたために、死後に天狗になったともいう。
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(ゴダイゴテンノウ)
2002年 京都府
『太平記』巻25「天龍寺事」によれば、後醍醐天皇率いる南朝勢力との戦いに勝利し、足利幕府を開いた足利尊氏・直義に対して、ある人物が言うには、近年天災が頻発し、これは後醍醐天皇の御神霊が激しく憤っているからである、と。そしてこれを人力によって収めることはできないので、天竜寺を造営しその菩提を弔うと天下は静かになると言う。
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オンリョウ
1977年
早良親王は、光仁天皇の第2子だが、延暦4年9月、謀反の疑いで淡路島に流刑され、当地で息絶えたが、怨霊が祟りをなしたので、延暦19年7月に祟道天皇の追号を送られた。
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レイ,ヘイケガニ
1975年 山口県
長門国赤間関の辺りに、怒った顔をしたような甲の蟹がいるが、これは元暦二年戦に負けて入水した平家の霊であるという。
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ヒメタニイケ,ヘイシノヒメギミ
1939年 奈良県
平氏の娘が落ち延びた先で残党の勇士とで出会い懐妊するが、夫は敵襲で死んだ。姫は池に飛び込んで自殺し、以後、姫の亡霊が通行人を池に引き込むようになった。
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