ミナモトノヨリマサ,ツボ 1974年 茨城県 源頼政が自害する時、郎党に首を隠して持ち歩けと命じ、もしもその場に居たいと思う所に来たら何らかの験を示すと言った。遺言通り郎党が首を壺に入れて諸国を遍歴すると、下野国古河で首を入れた壺が持ち上がらなくなったため、その場に葬り、社を作って「頼政明神」と崇めた。
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ヌエ,サルガミ,ヘビガミ,イヌガミ 1931年 愛媛県 源頼政の母の病が重かった頃、頭は猿、尾は蛇に似た鵺という怪獣が京都の紫宸殿に現れ、頼政が退治を命じられた。仁平3年4月7日、頼政は母から贈られた矢で鵺を射落とした。その夜、母は他界したが、鵺は現れなくなったという。退治された鵺は斬られて摂津の川尻へ流されたが、四国に流れ着いて祟りをなしたとか、頭は讃岐に着き猿神に、尾は伊予で蛇神に、手足は土佐、阿波に着いて犬神になったともいわれる。
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ヘビガミ,サルガミ,イヌガミ 1922年 昔源三位頼政が紫宸殿で射落とした鵺という、頭は猿、足は犬、尾は蛇に似た怪獣を切って攝津の川尻に投げ込んだ。それが海を漂い頭は讃岐に、手足は阿波・土佐に、尻尾は伊予に着いた。その祟りで伊予には蛇神、讃岐には猿神、阿波・土佐には犬神がいるという。また一説には犬神の起りはある残忍な人が犬を柱に縛り付け、その目の前に食べ物を置き、悶えて餓死させ、その犬の妄執が残忍な人に乗り移って子孫代々犬神になり、他人を悩ますという。
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オンリョウ 1929年 京都府 康平年中源頼義が東夷安倍貞任を討取り上洛した。卜部(うらべ)の勘文で貞任の遺体を怨霊となって出現するのを恐れて遺体を七つに切断し、東西南北へ流れる川べりに埋めたが、それでもなお怨霊が祟った。
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ヌエ 1985年 愛媛県 頼政の母は、伊予に篭り菩提を弔っていたが、やがて京の頼政への思いが募り狂乱する。母は竹を切って矢とするよう頼政に送るが、頼政が京で母から送られた矢を用いて鵼を射ると、その夜母は死んだという。
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シャクジュ,シャクカイ,イタドリ 1980年 常に積聚(胸・腹などに急に激しい痛みを感じる病)を患う人が、自分が死んだら火葬にして腹中の積聚を打ち砕いてくれと遺言する。実際火葬してみると積塊があったがどうしても砕けない。その時古老が来て、虎杖で作った杖で突いてみると木っ端微塵に砕けたという。
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ヒカリ 1978年 東京都 シナの王が漂流してきて、切腹して死んだ。「向かい畑」という丘に葬ったところ、夜な夜な光を発し、異変が生じた。そこで丘と根続きの中で一番高い、大堀の山に改葬したところ異変がやんだ。
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ナガタガニ 1961年 建久2年に天下を握った頼朝は、源義朝を射殺した長田親子を、大御堂近くの山上で磔にした。その松の下から出た蟹が長田蟹で、魔除けとして吊られる。
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タタリ 1957年 熊本県 18代頼房が立って間もなく、祖父の頼興が死んだので、頼房の父春広の弟にあたる頼孝、頼堅、長蔵の3人が、頼房を殺して領土を3分しようとした。頼堅は敗れて殺され、頼孝はかこまれて自殺した。頼孝の霊は甚だ祟りをなした。
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ヨリトモ,サザエ 1935年 千葉県 頼朝が房州に逃れて勝山沖の浮き島に遊んだとき、ここの栄螺の角のために手か足かに怪我をした。そこで栄螺の角を封じてしまったといい、今日なおこの島の栄螺は土地の人からは角なし栄螺と呼ばれている。
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クリ 1933年 岐阜県 源治が老年になって死ぬ前に、庭に栗を植えた。そしてその栗の葉が西に向かい、一枚の葉が縦に切れて二股になれば、極楽に往生するだろうといった。そうなったので源治は往生したのだろうといわれる。
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ヌケクビ 1965年 兵庫県 ダブセ(人を埋めるところ)に埋葬したが、翌日になってみると首が転げ出ていた。昆山和尚の墓の側に改葬したら、ころげ出なくなった。
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シリョウ,タマ 1941年 岐阜県 山の中を歩いているとき、供の者が主人を殺し、死体を竹薮に放ったまま山を下りた。そこへみずぼらしいお坊さんがやってきて、「お前は殺した死骸に取り付いていないと死ぬ」と忠言する。そこで供の者が主人の死体に取り付いていると、朝になると魂が戻ってきて「今日も探し出せんで残念な」と言って死体に入る。夕方また出て行って「今日は地を六尺掘っても探し出す」といい、そのたびに大きな音を立てる。三日目「この位探しても見つからないならあの男は死んだに違いない。これで成仏できる」といって魂は死体に入った。供の男は助かった。
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サンキチノクビ 1968年 三重県 三吉という無頼漢の悪党は神通力を持っていて、役人が捕えに来ると事前に知って逃げたのでなかなか捕えられなかった。しかしとうとう首切りの刑に処されることになり、首が切られるや否やその首は空中に舞い上がり故郷の大西某家の邸内に落下した。大西家と里人は、死んでも故郷に帰ってきた心意気をかって邸内に墓碑をたて手厚く供養した。
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トサカミノクビ 1983年 長野県 土佐守の首を遠山へ届けようとした者があり、道を運んだが、地蔵峠まで行くと急に重くなり、届けることができなかった。
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ヌエ 1973年 福井県 小浜市大谷に源三位頼政の館や墓跡と伝えられる所があり、ぬえという怪物を退治したという。
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ヤシマノハゲダヌキ 1922年 香川県 屋島の禿狸は源平屋島合戦の時、木の上に登って戦を見物して行ったのでその一部始終を知っている。その後禿狸は八栗寺に移して、屋島の合戦を演じて四国における狸大将として暮らしていたが、ある時狩人に殺されたという。これは禿狸が死後人に乗り移って話した身の上話という。また祖父母の話では、嘉永安政頃、阿波西林村の女髪結の体を借りて、吉凶その他を予言したり、他の狸憑から狸落しをしていたという。日清日露戦争では多くの乾分を従え、満州へ出征して大いに働いたという。
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トガメヅカ,ボウレイ 1992年 宮崎県 清武城の稲津掃部助重政は無実の罪に問われて飫肥藩に攻められ、妻雪江と郎党とともに自刃した。掃部夫婦と郎党は咎塚に葬られたが、夜になると咎人の亡霊が出るようになり、沖を行く飫肥藩の船を転覆させるようになった。困った人々は咎塚を山の中腹に移し、海が見えないように立て替えた。それからは何事も起こらないようになった。
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(オキクノタタリ) 1982年 群馬県 国峯城主の小幡公が侍女の菊ばかりを寵愛したので他の侍女が妬み、公の御飯に針を入れて、菊の仕業とした。菊は蛇責の刑となり、桶に入れられて宝積寺の池に沈められた。日野村の小柏源六が通りかかった時に桶を開けると、大量の蛇と瀕死の菊が出て来た。菊は「このご恩にお家に蛇の害は無いように致します」と言って亡くなった。お菊の母が「お菊が無実なら芽が出ろ」と池の辺に炒りゴマをまいたら、芽が出た。お菊の祟りで小幡家に戦死や切腹の沙汰が続いたので、宝積寺に碑を建てて供養した。
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オチアイヅカ 1979年 岐阜県 昔、武田と織田が戦って、落人が逃げてきたが桜の木のところで首をはねられた。その首が埋められた場所へ入ると死ぬといわれる。
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