シンパチミョウジン 1956年 宮城県 新八は白石運三郎という侍の小作人の次男で、おかいぼ取りと称する使い走りを務める親孝行の若者だった。兄の嫁は根性曲がりの女で舅を虐待した。文化(1804~1817)の頃、兄嫁は大師講の団子に針を入れる。新八が親にすすめると針が出る。兄嫁は新八が父を殺そうとしたと代官に訴える。新八は兄嫁を思って口を開かず死罪にきまり、「首が北向きに落ちたら無実だ、必ず祟る」といって死ぬ。間もなく新八の家は没落する。村人は花川の岸辺の岩出山街道の傍に碑を立てて、新八明神と称した。
類似事例 |
|
シリョウノハカ 1987年 長野県 享保(1716~1736)頃,ある日の夕方,一人の行者がこの村で宿を探したが,どの家でも泊めてくれなかったので,行者は村はずれの崖から落ちて死んでしまった。間もなく妻が死骸を引き取りに来て,村の薄情さを罵り,「たたれ,たたれ」と呪ったので,この村に流行病が流行った。そこで死霊を慰めるため明治32年2月に石宮と墓を建てた。
類似事例 |
|
ヤマウバ,オオイケノヌシ 1984年 愛知県 福富新蔵という郷士が、岩の上で異形の大女が髪を振り乱し、月の光で鉄漿をつけているのを見た。矢を射掛けると手ごたえがあり、血をたどっていくと与八郎の家に着いてその妻が臥せっていた。しかし寝所にその姿はなく、血痕がありそれをたどって行くと美濃各務の広池の岸まで続いていた。ここで名を呼ぶと白い苧綛が流れ寄り、拾い上げてみると血に染まったそれは先に見た山姥の髪ほどの長さの白髪の束であった。このことから与八郎の妻は山姥でありこの大池の主であったと解釈され、白髪は持ち帰られて供養された。このことからこの池を苧がせ池と呼ぶようになった。与八郎と山姥の子である京丸は長じて母の正体を知り、山姥の化身であった母の供養の為に寺を建てて弔った。
類似事例 |
|
タタリ,キダン,キカイ,ヤマノカミ 1974年 京都府 文政11年、鳥辺野の地蔵山から土砂を採っていたところ、山の神といわれる所まで掘り進めてしまった。大きな壺に掘り当たり、怪しいと思ったけれども、周りや底のほうへ掘り進めた。すると突然土中が鳴動して、壺がすり落ちる音に驚いて人足が死んでしまった。そして世話人の数人もことごとく大病にかかり死んでしまった。老尼の祈禱者に頼み神おろしをしてもらうと、絶入の形になり、幣を持たせると居直って、にらみつけて、自分は明智の一類であり、山に葬られ、山の神と言われていたが、理不尽な振る舞いの鬱憤が晴れないと言う。後も地蔵を穴に納めて供養したり読経をしたりしたが死人が出た。
類似事例 |
|
タカミチノヒ 1956年 宮城県 寺崎部落附近に坂上大宿禰高道の墳がある。高道は陸奥守として下ってきて天安2(858)年正月に戦死した人物。村人は「山田の碑」「貞観石」と呼んでおり,この塚を涜すと禍を受けると言い伝えられてきた。寛政2(1790)年4月,庄兵衛という農夫が鋤で塚の上の土を掘ったところ,帰宅後に発熱悪寒をおぼえて人事不省におちいり,「汝百姓の身を以って蓑笠を着け土足のまま我が塚の上を削る。非礼も甚だしい」とうわ言を言うようになった。家族が驚いて墓に行き,香華を供えてその罪を詫びると主人の病は忽ち癒えたという。土地の人々が碑を荒廃に任せていたので祟りを受けたのだろうということである。寺崎部落の高橋屋六蔵の談話。
類似事例 |
|
クマノジンジャ 1956年 宮城県 平安末、仙台市と名取市の境の前田に1人の巫女がいて紀州の熊野に年参りをしたが、老後長旅に堪えず、保安4年(1123)、名取川を音無川に見立て、岸に新宮証誠殿、その西に本宮、高館山に那智権現を勧請して、熊野三所権現と称した。巫女は老いて名取老女と呼ばれた。あるとき、熊野の修験が陸奥に下り証誠殿に参籠すると、枕辺に子童が現れ、陸奥に名取老女がおり久しく見えぬが、これを渡してほしいといって消え、枕辺にナギの葉があって「道遠し年もいつしか老いにけり思い起こせよわれも忘れじ」と三十一文字が書いてあった。修験が陸奥に下って老女にこれを伝えると、感激に涙を流して三社を案内したという。
類似事例 |
|
ヘンドバカ 1975年 愛媛県 150年ほど前に、葛谷に妻を亡くして子と暮らしている男がいた。宿を貸した四国遍路と結婚の約束をしたが、女が数日留守にして戻ると親族の反対に合い、女は家を出た。その日は大雪で、女は雪で動けなくなり谷に落ちて死んだ。以来、その家には不幸が続いたので、死んだ場所に地蔵を建てて、霊を祀ったという。それを遍土墓と呼んでいる。
類似事例 |
|
(キエタシタイ) 2003年 沖縄県 昔、善縄に大屋子という人がいた。漁をしていたが、ある時亀を捕まえてそれを背負って帰る途中、怪我をして死んでしまった。家族が弔ったが3日して棺を見ると死体が無くなっていた。驚いていると空中から声がして大屋子は本当に死んだわけではないという。家族が夢から覚めたようになっていると、薄草と野葡萄とがあったという。
類似事例 |
|
カイイヤシキ、オオニュウドウ、ヤシキカミ 1956年 宮城県 昔,新坂通台町五番丁南側東角の屋敷を拝領した侍が一人住まいをしていた。ある夜座敷に寝そべっていたところ庭先近くで呼ぶ声が聞こえる。障子の隙間から覗くと軒よりも高いような大入道が立っており,ここは昔から自分の屋敷だから早く立ち退けとわめく。主人が「ここは殿から拝領した我が屋敷じゃ。お前こそ立ち去れ。」と言い返すと,「ここはわしを粗末にしたので住み着いた者はいない。祭の日に神酒や供物をして厚く祀ってくれれば守護してやろう」といって消えてしまった。翌朝調べると屋敷の一隅に梅の老木があり,その下に小祠があった。それが前夜の大入道が屋敷神として棲んでいた祠だったのだろう。当時今泉孫八郎の屋敷であった。
類似事例 |
|
バンバアイシ 1960年 神奈川県 昔、ある信心者の夢枕に神が立ち「一の釜西方を流れる相模川の深いところにいる。自分の体は石で夫石は川下の江ノ島にいる。上流から訪ねてきたが、水が少なく下流に行けないから八幡宮まで連れて行って欲しい」と告げた。夢から醒めて一の釜に行くと、川底に老婆のような形の石があったため社の境内に移した。その後日照りが続いた時また夢枕に立ち、「自分を一の釜に入れると雨を降らしてやる」と告げたのでそうすると雨が降った。その後石はしばらく放置されたが、川下の人が井戸端の敷石として使った。しかし、一家中の人が病気になったため、行者の進言で八幡宮へと返された。
類似事例 |
|
ショウトクタイシゾウ 2002年 石川県 延宝3年、加賀国河北田郡田近の里俵原村に住む人の夢枕に聖徳太子が立ち、夜明け近くに太子坂へと行った。その場所を掘ると聖徳太子の木像が現れ、家へと持ち帰った。夏のある日、雨が降ったため急いで家に帰ると、仏の手により干ものが屋内に入れられていた。また、秋の夕暮れに子供と遊ぶ太子の姿を見た人もいた。
類似事例 |
|
サケ,イド 1967年 福島県 昔、勿来に孝子がいた。母親が酒好きであったが、貧乏なので飲ませることができない。それを悲しく思いながら、ある日家の後ろに井戸を掘った。すると酒のような水が湧き出、それがたいへん良い酒だったので、母親に飲ませて喜ばれたという。井戸を掘った鍬は出蔵寺にあるといわれ、大同2年にこの寺が建立されたときに、縁起が良い鍬として地ならしに使われたという。また、井戸は現在酒井関根の蛭田源右衛門という人の屋敷裏に跡が残っているという。
類似事例 |
|
エンマドウヨコチョウノカイ 1956年 宮城県 明治の中頃,附近一帯の道路工事に伴って泥沼を埋め立てた。工事完成の数日後,夕方そこを歩いたら髪を振り乱した白い葬衣の女が現れて,何か訴えたげにしていたのを見た者が出た。昔塩竃明神の火災の時,この池にお釜が飛んできて埋まった。明神を信仰していた門前町の妓楼の遊女も焼け死んで,その魂がお釜に縋ってここに埋まったので,今回現れた女はその幽霊だということであった。一方,その幽霊は塩竃の遊女ではなく,近くの弓ノ町が遊女町であった頃無残な死に方をした女があり,その墓石が道路工事で古池の傍らに埋められてしまったために怨んで現れたという噂もあった。円福時近くに住む丹野某と言う請負師がこれを聞いて古池近くを掘らせるとそれらしい墓石が出土,これを厚く弔うとその後幽霊は現れなかったと言う話も行われている。
類似事例 |
|
カンノン,ニオウサマ 1930年 奈良県 昔、貧しい行者が長谷の観音に山ごもりの後、下山の途中で最初に会った女を妻にせよとの示現を受け、そのとおりにした。美しい女房だったので、王城の大殿という人が様々な勝負を挑んで女房を奪おうとしたが、神仏の加護でそれはかなわなかった。最後の勝負は相撲で、妻が連れてきた60歳ばかりの痩せた男が安々と相手の力士を投げた。これを不思議に思って後をつけていくと、男は近江の大山寺の仁王様であった。行者は長者となった。妻は瀧蔵観音の化身だった。
類似事例 |
|
シンランショウニン 1979年 山梨県 ある日の夕暮れに、1人の旅僧がやってきて泊まった。翌朝、ここは清浄なところだから何日か行をやりたいというので、堂へ案内した。婆さんが家の内に水の出る所はないものかと捜していると、その旅僧が場所を示した。掘ってみると清水がわき出した。ただし、この水はこの家の入用だけしか出ず、女性が不浄の時には汲んではいけないと約束した。ある時、婆さんが約束を忘れて水を飲んだところ、水が止まってしまったが、坊さんに話して拝んでもらうと、また水が出てきた。後にこの名僧は親鸞聖人であることがわかった。
類似事例 |
|
イナリサマ 1975年 福島県 深谷のお稲荷様を信仰しなかった人が、酒を買いに行く途中に稲荷様の方向に向って立小便をしたら、帰りに迷わされて夜通し山の中を歩かされた。
類似事例 |
|
コヤスジゾウ 2001年 奈良県 桶屋の一行が地蔵の前を頭を下げて通ったところ、嫁が妊娠した。その後、乞食が地蔵のお堂で寝ていると、お坊さんが馬から下りてきて、田山で生まれたという子供の話をしていた。乞食が確かめに言ってみると、それは桶屋の家で、それからその地蔵は子安地蔵と呼ばれるようになった。
類似事例 |
|
ジゾウ 1966年 新潟県 昔、六部がやってきて何千貫もある石に3、4年かかって4m弱もある地蔵を彫って泉まで運び、集落には協力のお礼に小さな地蔵を残していった。小さい地蔵はお堂に安置したが、子どもがいじって遊ぶので格子の中に入れた。冬のある日、行って見ると地蔵はおらず、小さな子どもの足跡が点々と雪についていた。辿って行くと、清水の湧いているところに地蔵がいた。そこを地蔵清水と名付け、地蔵は谷泉寺に移した。
類似事例 |
|
タキヤマジンジャ 1989年 鳥取県 夜なべの最中に女衆が、日野町の黒坂の滝山神社に夜中行ってこられるか賭けをして、オタキサンという気丈な嫁が2歳になる子を背負ってお宮まで行った。帰りに「おかしいなー、おかしいなー」と声がした。戻って子供に乳を飲まそうとして降ろしてみたら、子供の首がなくなっていた。オタキサンは神社の前の池に身を投げて死んだ。その池をオタキの池という。
類似事例 |
|
オノノコマチノレイ,ビジョヅカ 1976年 山形県 京都で深草少将が小野小町に恋して通い詰めたが小町は応えず、少将は思いを遂げず急逝した。その恨みからか小町は病となり、死を前に父に会いたいと北国へ向かった。米沢の山中で小町は病に倒れたが、現れた薬師如来に小野川の湯を教えられ平癒する。しかし塩井で亡くなったと言う。そこに村人が地蔵を立てて葬ったのが美女塚であると言う。その200年後、旅僧が読経すると小町の霊が現れ、米沢の呉服商の清欒が少将の生まれ変わりと言う。これを知った呉服商は間もなく病で死んだので、美女塚に対して西方に美男塚を作って葬った。異伝も多い。
類似事例 |
|