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怪異・妖怪伝承データベース
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検索対象事例

タカコウネンブツ
1981年 広島県
伊予国北条の地頭多賀江兵衛何某が、安芸国に乱入するが、神罰がくだり溺死する。その怨念が渡海の船に障りをなすので、7月16日魂まつりにその霊を弔うと障りはなくなった。

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〔タガヤシノボウレイ〕
1978年 広島県
宮島踊りは多賀谷念仏とも呼ばれる。これは多賀谷氏が天正6年に安芸国に攻め入った時、厳島神社で狼藉を働いて溺死し、その亡霊が付近の船に災いをするのでその霊をなぐさめるために始まった。
類似事例

(ナカヒラソウベエノボウレイ)
1964年 高知県
検地役人をだました義民・中平宗兵衛が首を討たれたとき、霊が渡し舟に乗った。声だけだった。
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エイゾンホウイン
1956年 宮城県
栄存法印は高僧として衆人の帰依が篤かったが,笹町家当主新左衛門頼重が嫉んで讒訴を行い,寺領を悪田とすり替え,住民に神域を掠めさせた。遂に江ノ島に流罪された法印は,笹町家一味及び石巻湊町に対し呪詛の修法を勤行したので,湊町にはしばしば大火が起こった。但し法印を庇護してきた高橋某家のみは災いを免れた。3年後の天和元(1681)年二月,法印は「口に鰹節を挟み,湊町を望む地に身を逆さまに埋めよ」という遺言を残して死ぬが,島民がこれを守らなかったところ関係者が病気となり,島に不漁や凶事が重なったため,改めて遺言通りに埋葬し供養を行った。埋葬場所は現 栄存神社。一方,笹町家では法印の呪いによって当主頼重がしばしば栄存の幽鬼に襲われ,自分の肢を斬ったり息子彦三郎安頼や妻女を斬殺したりした上,発狂した。九族も死に絶えた。享保頃(1716~36),法印の赦免を請い,霊を牧山に移して長禅寺に栄存神社として祀った。今でも旧2月6日の命日を御縁日として祭を行う。
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イセオドリ
1973年
寛永元年の2月上旬から、諸国で伊勢踊が大流行し、泊舟伝馬人夫と号する神を、伊勢太神宮に送ってきた。吉田家に下問すると、鎮座以後、祭礼を怠っていないに、伊勢内宮・外宮の神が飛んでいくはずがない、これは諸民の児戯だ、と答えがあった。将軍家でなお詮議をし、以前に伊勢踊が流行った後に、大坂で兵乱が起き、徳川家康が死んでいるので、これは不吉の予兆であると評定がまとまった。その邪神を野外に送り捨てると、踊に関わっていた人馬の疲弊も止まった。
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サンキチノクビ
1968年 三重県
三吉という無頼漢の悪党は神通力を持っていて、役人が捕えに来ると事前に知って逃げたのでなかなか捕えられなかった。しかしとうとう首切りの刑に処されることになり、首が切られるや否やその首は空中に舞い上がり故郷の大西某家の邸内に落下した。大西家と里人は、死んでも故郷に帰ってきた心意気をかって邸内に墓碑をたて手厚く供養した。
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キツネ
1956年 宮城県
伊達家御乱舞方の一噌流笛の名人鯰江八太夫が、この網地島(あじじま)に流刑となる。彼が毎日夕方海岸に出て笛を吹く度に、男の子が来て聴いていた。ある日いうには、わたしは年古くこの島に住む狐だが、近いうちに狐捕り弥左衛門が来るので笛を聴くのも今夜限りといい、殿様が松ヶ浜の御殿崎に出馬するから笛を吹くようにとその月日を教え、笛のお礼に源平屋島の戦を見せて姿を消す。殿様出馬当日、八太夫の笛は御殿崎までとどき、八太夫は赦免になる。
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レイビ
1959年 長野県
鎌倉時代初期に仇を討たれた者の子供、犬房丸が流されてきて、命尽きた場所には墓がある。そこから霊火が出て、対岸の狐島でもそれが見えたということである。
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ミナモトノヨリマサ,ツボ
1974年 茨城県
源頼政が自害する時、郎党に首を隠して持ち歩けと命じ、もしもその場に居たいと思う所に来たら何らかの験を示すと言った。遺言通り郎党が首を壺に入れて諸国を遍歴すると、下野国古河で首を入れた壺が持ち上がらなくなったため、その場に葬り、社を作って「頼政明神」と崇めた。
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ロクブノボウレイ
1961年 山梨県
伊藤家の宗家が華やかなりし頃、1人の六部が訪れて、かそう火をと言って、煙草の火を借りて何気なく立ち去る六部を不吉であるということで主が弓で射止め、無縁仏として葬ったという。この伊藤家の宗家が没落後、亡霊が現れて、一族14軒を廻って浮かぶ瀬を求めた。
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オンリョウ
1929年 京都府
康平年中源頼義が東夷安倍貞任を討取り上洛した。卜部(うらべ)の勘文で貞任の遺体を怨霊となって出現するのを恐れて遺体を七つに切断し、東西南北へ流れる川べりに埋めたが、それでもなお怨霊が祟った。
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ダイジャ
1967年 福島県
菅沼平というところがあり、今は水が無くなり谷地になっている。承平年中、平将門の女弟がこの国に来たのだが、藤原秀郷のために嫉妬の恨みにより自害した。その魂は大蛇になり菅沼に住み、建久年中になり、人身御供をとるなどして村人を苦しめた。ところが白鳥大明神の霊験により大蛇を射殺することができた。大蛇を退治して帰ってきたところを来の原といっているが、今は北の原ともいっている。
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ウマヅカ
1956年 宮城県
藤原実方が、笠島道祖神の前を乗り打ちして神罰により落馬死亡した。その乗馬も同様に死んだのを葬る。
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アマザケジゾウ
1956年 宮城県
元和2年(1616)吉岡三万八千石に封じられた伊達河内守宗清(政宗の三男)は、ある日吉田川でオウガイ漁をして帰城の途中、梵天をかついだ行者に会った。面白半分で生臭さのオウガイを渡すと、行者はかたく断った。河内守は起こって無礼打ちにしたが、たたりをうけて奇病にかかり、35で他界。後に行者の埋葬地に石地蔵を立てて供養した。耳の病気のとき、竹筒に甘酒を入れて奉納すると治る。
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ユウレイ
1974年 東京都
江戸で妻が死んで30日程後に新しい妻を迎えた男のもとに、その夜から先妻の幽霊が現れ、手や足を縮め悩ました。生国伊予に帰りたいと船に乗ったら明石辺りで先妻の霊が船中に現れた。郷里に着いてから取り殺された。
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ロクブノモッテイタアワ
1989年 鹿児島県
藩政のころ、上村の番所を通ろうとした六部とその娘が通過を許されずにダグリの先の岩から入水自殺したので、今このあたりの瀬を六部瀬というが、この六部の持っていた粟が普段は草も生えぬダグリのあたりで芽を出し、人々は驚いた。90歳くらいの人はだいたい、その粟を見たという。今はもう生えない。下村の人たちが建てた六部の墓が、昔の墓所だった所に今も建っている。台風の時に墓のあたりの土から巡礼の持つ鈴が出てきたという。六部うらみの歌という辞世の歌もある。
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オショウ,タタリ
1985年 愛媛県
正徳寺の某和尚は、政治向きの儀を誹謗したため、今治藩家老達に簀巻きにされ海中に沈められ殺害された。後に天明の頃に藩主に祟りをなしたので、八幡社の左側に小社を建てて怨霊神として祀った。
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フナユウレイ,ボウレイ
1926年 千葉県
安房国州崎には潮の流れの鋭いところがあって、そこに船がひとたび入ると逃げることができない。船幽霊や難船した亡霊たちは、この潮路をやって来るが、州崎で止まり、恨めしげな舟歌を歌う。
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ヘビガミ,サルガミ,イヌガミ
1922年
昔源三位頼政が紫宸殿で射落とした鵺という、頭は猿、足は犬、尾は蛇に似た怪獣を切って攝津の川尻に投げ込んだ。それが海を漂い頭は讃岐に、手足は阿波・土佐に、尻尾は伊予に着いた。その祟りで伊予には蛇神、讃岐には猿神、阿波・土佐には犬神がいるという。また一説には犬神の起りはある残忍な人が犬を柱に縛り付け、その目の前に食べ物を置き、悶えて餓死させ、その犬の妄執が残忍な人に乗り移って子孫代々犬神になり、他人を悩ますという。
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サネカタヅカ
1956年 宮城県
在中将藤原実方は長徳元年(995年)3月、東山の桜狩りに「桜狩り雨はふり来ぬおなじくは濡るとも花の蔭にかくれむ」と詠み、絶唱と称えられたが、衆の前で藤原行成に「歌が美しいがおこの者なり」とけなされ、実方は怒って行成の冠をつかみ、紫宸殿の廊下に投げる。一条天皇の怒りにふれ、陸奥の歌枕見て参れと陸奥守に遷され、多賀国府に下る。同4年11月、出羽に阿古耶の松を訪ねての帰途、名取郡笠島の道祖神の社前を通り、邪神として乗り打ちしたところ、馬が棒立ちとなって落馬し、今、仮宿と称する民家で死ぬ。享保7年(1722)11月4日五代藩主吉村が詣で塚を修築。
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フナユウレイ
1958年 愛媛県
天保年間に神吉丸という帆船が不正を隠すために、自ら船を沈ませたが、その運命を共にした船乗り達の霊が夜中津島の浜に帰ってくるという。
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