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怪異・妖怪伝承データベース
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検索対象事例

イセオドリ
1973年
寛永元年の2月上旬から、諸国で伊勢踊が大流行し、泊舟伝馬人夫と号する神を、伊勢太神宮に送ってきた。吉田家に下問すると、鎮座以後、祭礼を怠っていないに、伊勢内宮・外宮の神が飛んでいくはずがない、これは諸民の児戯だ、と答えがあった。将軍家でなお詮議をし、以前に伊勢踊が流行った後に、大坂で兵乱が起き、徳川家康が死んでいるので、これは不吉の予兆であると評定がまとまった。その邪神を野外に送り捨てると、踊に関わっていた人馬の疲弊も止まった。

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テンペンチカイ
1978年
綱吉公は遊興に溺れられ、御料が不足するようになった。そこで保明が勘定奉行より下知を受け、色々な新法を企てたところ、天変地怪が打ち続き、奇雲・異星・光り物が出現し、また上総浦から安房相模に至って著しく海が鳴った。これは世の凶を示すと、護持院が殿中に壇をかざり護摩を修したが、邪鬼虚に乗るの習いか、狐狸が時を得て様々な妖をなした。また、富士の須走口から燃え、大いに鳴動して近国へ砂を降らせた。
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ヤマバト,ハチマンダイボサツ
1974年 東京都
寛永13年ころ、徳川家光の弓大将であった松平新五左衛門尉直次に与力すべく、人々がある場所で弓の稽古をしていた。人々は徳川家の氏神である八幡大菩薩が弓矢の守護神だったので、同地に八幡宮を勧請することにした。彼らの願いは叶えられたが、その時山鳩が3羽松の枝にとどまったといい、人々は八幡大菩薩の影向と受け止めたという。また将軍家に若君が生まれたのは、社僧が受けた八幡大菩薩の夢告に少しも違わなかった。他に神前で風流の踊りをしていると、亥の刻あたりに神木の松の梢から、提灯ほどの光るものが出てきて、社の上に落ちた。
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イサオドリ,ボウレイ,オンリョウ
1984年 愛媛県
津の浦は強風波濤の難が止む時はなく、亡霊や怨霊の災いで浦内の人民は心を痛めていた。ある時、丹後の国のいさおどりという盆踊りには亡霊怨念の変災を防ぐとの噂を聞きつけた者が、その地を訪ね踊りを習得し、帰国して伝えると、これまでの災いが忽ちに止んだ。
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エンノギョウジャ,ゼンキ,ゴキ,ヒトコトヌシ
1928年 奈良県
役行者が岩橋を作ろうとした際、前鬼と後鬼は一生懸命働いたが、葛城の神である一言主は醜い顔を見られたくないという理由で昼間には働かなかった。これに怒った行者は一言主を縛り付けて谷間に突き落とした。憤慨した一言主は宮女に取憑き、行者が邪神をあつめ、鬼軍を使って国を狙っていると帝に進言した。帝の兵はなかなか行者を捕らえることができなかったが、母親が責められているのを知り、自ら山を出て伊豆大島に流罪になった。
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キフネノカミ,タタリ,サクゴシ
1983年 京都府
後奈良院の御世、京中に咳疫が流行し、子供が多く死んだ。卜者によると、貴船の神の祟りだという。これによって弘治2年9月2日にこの神を祭り、時疫を退けさせた。今でも洛中の子供が、小神輿といって祭るのはこの遺風だという。
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ミコシ,タタリ
1935年 神奈川県
7月14日に江の島で行われる天王祭の御輿は、明治以前は塗りのものだったが、神仏分離の影響によって白木の御輿に作り替えたので、塗りのみこしは売り払われた。しかしそれを運んだ舟の持ち主父子は間もなく死に、また売買に立ち会った名主も発狂したり不幸が続いた。これは天王様の祟りだろうと言われた。
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ヒビヤシンメイ
1974年 東京都
寛弘2年9月16日に、日比谷あたりにおいて御神幣と大牙が降ってきたので、村中の者が怪しんでいたところ、どこから戸もなく7歳ほどの女の子が現れた。その子は眼色が変わり狂いだして口ばしることには、自分は伊勢内外宮の神であり、鹿島の地にいる悪軍を退治した後だという。そしてこの地に自分が来た証拠に2つのしるしを降したので、早速社殿を建てて祀りをせよと命じた。神が抜けると、その女の子もどこかに消えた。
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(ヒコウノモノ)
1982年 東京都
享保12年5月の、亀戸大明神に大杉大明神が飛んできたと言う話は、詮議した結果偽作である事が露見し、社家などこのことを言い出した者たちが入牢仰せ付けられた。
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モモダユウ,ニンギョウマワシ
1952年 兵庫県
百太夫が建てた戎社に仕えた道薫坊が没すると海が長い間荒れた。百太夫が道薫坊の人形を作って舞わせたら海は収まった。百太夫は人形舞わしとなって諸国を巡って神いさめを行ったという。
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タテイシイナリ
1922年 山口県
ある日立石稲荷に行くと、代人に立石神の奥方が乗り移り、息子の中国が酒色に耽り行方知れずになっていて、これを憂い盲目同然となった。汝は立石神とその弟石光に気に入られているので、何とか帰って来られるよう取り成しして欲しいといわれた。次に中国稲荷神が乗り移り、父より勘当を受け帰参できない。帰参出来るように父弟の信任している卿と名を交換して欲しいといわれた。次に代人に父神を下げさせて、母子の請願を取り次ぎ、名義の交換を相談した。取り成しは許容され、中国神は帰参出来ることになった。
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(エエジャナイカ)
1977年
ある乙酉の年に、難波や奈良など畿内各地で、妖霊の言葉を言いふらして諸人が狂ったようになり、老若男女数万人がそろって伊勢へ参宮した。それと同じ頃に伊勢で降った大豆が大麻に変わったり、中島郡吉藤村に麻筥が降ったり、知多郡有松村の童子の背中に大麻が降りかかったりしたという。それは三州や濃州や遠州や駿州でも起きた。
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イソザキイナリ
1956年 宮城県
文禄の朝鮮の役(1592)に、磯崎の水主が伊達勢の水軍として高麗に渡ったが、磯崎稲荷も眷属の狐を従えて出陣したといい、肥前の名護屋に滞陣中、その中の1匹が淀君の侍女について侍女が病気になる。それを追い出そうとすると、「われこそは奥州松島は磯崎明神の眷属なるぞ」と力み返ったので、太閤大いに怒り、「汝早々に狐めを退散させずば、やわかそのままに差し置くべき」と、お叱り状に、稲荷太明神殿、太閤秀吉としたため、花押までつけて遣わしたので、狐も逃げ出し、侍女の病気も治ったという。このお叱り状は磯崎稲荷に長く伝えられていた。
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カミサマ
1995年 愛知県
石作神社でお神輿を新調して神楽を催したら、流行り病が起きた。神様が騒がしいことが嫌いだということになり、神楽をやめてお神輿は埋めてしまった。
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(イセダイジングウノレイケン)
1977年 三重県
伊勢大神宮の霊験は著しい。この春に江戸の者30人ばかりが、大神宮にて神楽を行おうと松坂明野にやって来たところ、数人が病気もせずに死んでしまい、大雨が石を流して風が木を抜くほどだったが、それは松坂の南側だけだった。そして6月に杣入の行事がある時、大きな材木が必要な御戸木を、前回と同じく所々に探し尋ねたが、まったく見つけることができなかった。そこで神人が山に入ったところ、普段は見ることのできないほど大きな檜が立ち並んでおり、人々はこれを神異であると言った。
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カミ
1929年 長崎県
明治3年8~9月頃から、勝本若宮島の若宮大名神が飛来したという噂がたった。
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ダイジングウサマ,ヒノタマ
1967年 栃木県
1920年ころのこと。火の玉が飛んできて毎夜石田家の裏の柿の木に止まって、評判になった。足利の長岡の神社の神主に見てもらうと、大神宮様が合祀を嫌って逃げ出したのだというので、別の社に移したところ、出なくなった。後日、行商人がピカピカ光る砂石を拾って、不思議に思って聞いてみると、それが大神宮様の御神体だった。以来大神宮様の御神体は砂石である。
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ジングウコウゴウ,スミヨシダイミョウジン,リュウグウ
1974年 福岡県
神功皇后が三韓征伐に向かう際、筑前国香椎において住吉大明神が翁姿で現れて、異国征伐には竜宮の干珠満珠を借りればよいと進言する。神功皇后が借り方を聞いたところ、翁は磯鹿島の安曇磯良という者を召し出し、竜宮に行かせればよいという。そして磯良は細男の舞を好むので、それを舞えば自らやってくるという。皇后は誰が舞えば良いか尋ねると、翁は供奉の者に楽を演奏させて、翁は立って舞った。すると磯良が舞人の姿で亀に乗ってやってきて、翁と共に舞った。皇后は妹の豊姫を磯良に伴わせて竜宮へ行かせて、かの2顆を借り、三韓を降伏した。
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ヒヒ,シラハノヤ
1989年 長野県
遠州の府中という村では、秋の祭には氏神様に人身御供として娘を差し出さねばならず、それは白羽の矢で決定されていた。あるとき、村にやってきた六部が氏神に泊まったところ、何者かが「信州信濃の光前寺、へえぼう太郎に知らせるな」と踊っているのに気づいた。翌朝村に立ち寄った六部は、村人から人身御供の話を聞き、化け物を退治するためにへえぼう太郎を探して信州へ向かった。
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カイ,カイイ
1974年 東京都
午三月、土手四番町のある人の家で膳や煙草盆、石臼などが一人で空中に浮くことが続いた。修験者や陰陽師は仏神の祟りや狸の仕業と言い、彼の言うとおり祈祷をしたが効果はなかった。家が滅びる前兆かと心を痛めたが、とある人が「目黒出身の人をかかえると目黒の鎮守がそれを惜しんでこのような災いを起こす」と言った。この春のにかかえた者を調べたが、目黒出身者はいなかった。しかたなく3、4人に暇を出したところその怪異は止んだ。
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カッパ,アマゴゼンサマ
1935年 福岡県
大積の天疫神社は、平家の大将能登守教経の奥方が壇ノ浦の戦いのときに波間に投じ、ここの海場に流れ着いたのを里人が祀ったという。この女が神となって、海御前様と呼ばれ河童の総元締めになった。5月節句に河童を集めて、「蕎麦の花の咲かぬうちにもどれ(蕎麦の花は源氏の白旗のように白いので)、敵方にあらざる人畜の命は無暗にとってはならぬ」と厳命して解散するという。それから彼らは思い思いに遊びまわり、秋口蕎麦の花の咲くころに山に引き上げるのだという。
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