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検索対象事例

マサカドノタタリ
1995年 東京都
昭和三年の報知新聞には、「将門のたゝり」に役人はおびえきっており、国費を投じて亡霊の大法要をしたと掲載されている。

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マサカド,タタリ
1995年 東京都
昭和十五年に大蔵省本庁に落雷した時には、それが将門塚付近であった為に、将門霊神の祟りということになり、慰霊祭が盛大に行われた。
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ユウレイ
1957年 神奈川県
戦後、幽霊が出たという話が新聞にも掲載され評判になった。それを見たという人が気が変になり奇行が見られるようになった。しかし警察に調べられうそだとわかった。
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マサカドクビヅカ,タタリ
1995年 東京都
関東大震災後に、千代田区大手町にあった将門首塚を平らに整地して、仮庁舎を建てた。すると庁舎に勤める役人から怪我人や病人が続出して、幹部には死人が出た。これは首塚の祟りだという噂が広がり、庁舎を取り壊し盛大な鎮魂祭を行った。
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マ,アクレイ
1975年 愛知県
享保年間、西三河山中村で死んだ子供を火葬にしたところ、伯母がその亡骸を火から取り出し喰らった。その話を聞いた村の者が数十人で墓所へ行ったところ、伯母はすさまじい顔つきとなり、人を飛び越え行方不明となった。この伯母は普段から凶悪の者だったので、魔が入れ替わったのだろうという。道心者がこの悪霊を弔った。
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レイ,ボウコン,オンネン
1975年
武蔵国多摩郡中野に陣取り、奸計により討死した平将頼の霊が戦場にとどまり人々に祟をなした。480年程の間怨念は残っていたが、延文の頃一遍上人の3代目真数坊が芝崎村に草庵をつくり供養した。後の神田橋日輪寺である。また将頼の兄将門を神にした。東国に祟をなした霊は将門ではなく将頼のようだ。
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マサカド,クビヅカ,オンリョウ
1995年 東京都
関東大震災後に、病人が続出して現職の蔵相らが死んでいくので、これは将門の怨霊のせいだということで衆議が一致した。バラックを建てる時に、首塚を縁の下に叩き込んで靴で毎日踏みつけていたから、将門が怒ったのだという。そうして盛大な鎮魂祭が行われた。
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タロウイナリ
1978年 東京都
享和3年夏の初めより浅草の立花左近将監の屋敷の稲荷社が霊験あらたかだと流行しだし、翌年にいたるまで盛況だった。
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キジョ
1975年 愛知県
三河国保飯郡舞木村で享保のはじめ、ある人の女房で二十五歳になる女が狂人のようになり、火葬している最中の死体の肉を食うなどした。村人に咎められたので山中へ逃げた。お役所に訴え出たらそのことに関する触書が出された。
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マサカド,クビ
1995年 滋賀県
滋賀県愛知郡の将軍塚は、将門の首を葬った所であるとされている。
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オオガマ
1962年 大阪府
明治33年ころ、大阪毎日新聞が三面記事で「信田山の大蝦蟇」について連日報道した。その夏、瀬戸物町陶器神社に、うっそうとした渓谷に人間ほどの大きさの大蝦蟇が大目玉を光らせている、という作り物が登場し、観客が群がった。
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イナムシ,ボウレイ
1923年 静岡県
元亀3年合戦に敗れた武田方の軍兵が、淵に身を投げて死んだ。翌年そのあたりが稲虫に襲われたが、亡魂の祟りであると噂された。
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ネコ,(オンガエシ)
1956年 宮城県
寛政年間(1789~1801),泉永寺住職玄契和尚は高い学徳を持っていたが,暮らしが苦しいので寺を捨てる覚悟をした。長年可愛がっていた三毛猫にも我が子に言うように暇を言い渡した。一方,物持の千田家には一人娘の美知代がいたが,学問好きの美知代は玄契和尚の学識を慕い,三毛猫も娘になついていた。ある時美知代に縁談が持ち上がったが,美知代はこれを嫌い,結納の前夜沼に身を投じてしまう。数日後,葬列が村境近くの一本杉の近くを通りかかると,柩が十数尺の老杉の梢に吊り上げられてしまった。僧侶や修験者たちが修法を行ったが効果がないので,玄契和尚を呼ぶことになった。和尚が数珠をもみ経文を唱えると,柩が降りてきて葬儀を終えることができた。実はこれは愛猫三毛の報恩で,以後寺も和尚も尊信を集めたという。同寺には玄契和尚の描いた大涅槃像が現存する。
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タカコウネンブツ
1981年 広島県
伊予国北条の地頭多賀江兵衛何某が、安芸国に乱入するが、神罰がくだり溺死する。その怨念が渡海の船に障りをなすので、7月16日魂まつりにその霊を弔うと障りはなくなった。
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ウンカ
1991年 静岡県
遠州大念仏は、三方原の戦いで死んだ武田方の兵隊の怨霊がウンカと化して災いをしたのを鎮めるために行なわれるようになった。
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ナキゴエ,コドモノレイコン
1929年 愛媛県
昔死亡した子供が放置されていた。盆踊りのころには、川を上下しながらオワーという叫び声が聞こえているのは、子供の霊魂が迷って生みの親を訪ねるとされる。大正三年に京都の高僧が三日三晩の法要をした時だけ、この泣き声がとまった。
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ボウレイ
1948年 香川県
浜辺に他国人が打ち上げられ、その亡霊が怪しい火となって燃えた。仏踊りをしてそれを収めたという。
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マサカド,クビ
1995年
俵藤太に射られた将門の首が数ヶ月も生きたままで、「斬られた体を呼び戻し、再び一緒になって進軍するぞ」と毎晩のように呼ぶので、人々は恐怖を感じていた。通りがかりのある人が「将門は俵藤太にこめかみから斬られた」と言うと、将門の顔が笑って死んだ。
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ボウレイ
1974年
亡霊に水を供える事は日本に昔からある事である。『日本書紀』の歌にも詠まれている。
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ネコ
1958年 岩手県
浄法寺町に福蔵寺という貧乏な寺があた。ある夜、可愛がっていた猫が夢枕に立ち、変事を暗示していなくなった。ある日、南部藩主の葬式があったが、急に棺が宙に舞い上がり下りてこない。そこで和尚が呼ばれて無事に棺を地に下ろし、寺領として30石を賜った。
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イセオドリ
1973年
寛永元年の2月上旬から、諸国で伊勢踊が大流行し、泊舟伝馬人夫と号する神を、伊勢太神宮に送ってきた。吉田家に下問すると、鎮座以後、祭礼を怠っていないに、伊勢内宮・外宮の神が飛んでいくはずがない、これは諸民の児戯だ、と答えがあった。将軍家でなお詮議をし、以前に伊勢踊が流行った後に、大坂で兵乱が起き、徳川家康が死んでいるので、これは不吉の予兆であると評定がまとまった。その邪神を野外に送り捨てると、踊に関わっていた人馬の疲弊も止まった。
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