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検索対象事例

ネズミコゾウノタタリ,ゲンスケチャヤ
1984年 岐阜県
大正10年ごろ、鼠小僧治郎吉の墓を学校を建てるために埋め、化学実験室が建てられた。化学実験室は原因不明の火事で全焼し、新築するもまた丸焼けになった。鼠小僧の祟りだという噂が出たので、墓を探して現在の場所に安置し、懇ろに供養した。

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ヘビ,タタリ
1959年 鹿児島県
大正年間のこと、この部落に住んでいる者が1匹のガラガラ蛇を殺した。珍しいものだったので、小学校に寄付し標本とされた。それから間もなくして、小学校で原因不明の火災があった。数日後、ヘビを殺した者の家もまた火事になった。佐太婆さんと呼ばれる物知りによると、これは殺した蛇の祟りであり、蛇は小学校の敷地にあった寺の住職の亡霊だという。そのため蛇を綺麗に洗い埋葬した。しかし、それからしばらく部落では子供の数が増えなかった。
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タヌキ
1933年 香川県
ほうしん寺の庫裡の近くで仔狸が遊んでいた。その仔狸に小僧が熱湯をかけて殺してしまった。悲しんだ親狸が京極氏の家来である西脇氏の邸内に住む西脇狸に相談に行くと、焼いてしまへと言った。そのため寺は放火されて焼けてしまったという。
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タノタタリ
1969年 福島県
田の真ん中に弁天様が祀ってあったものが、いつのまにか埋まってしまった弁天谷地という田は、祟りをおこすといわれていた。大正期学校で耕作したこともあったが、校長がポックリ死んでしまった。権兵衛という大工が作り始めたが、妻と子を亡くし、気味悪がって手放してしまった。ある人が草を刈ったら大きなうなぎがでてきたともいう。
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ヒトツメコゾウ
1991年 長野県
一ツ目小僧の墓所がある。明治の頃そこを開墾した爺様が人骨を掘り、埋め戻した。一ツ目の髑髏に山芋の根が入り込んでいた、と話が伝わっている。
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ニッタシロウヨシサダ,ニッタヨシサダ,タタリ
1940年 岐阜県
新田義貞が死んだとき、骸骨が蚕に変身し、そのまま川に入って以後、村では火災が後を絶たなかった。それは新田義貞の祟りであるとされ、墓が建てられた。
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エンゾウノウラミ,ユメマクラ
1995年 山形県 
1800年頃のこと、米沢藩の年貢が厳しいので役人の番所を焼打したが、役人は米沢に行っていて無事だった。円蔵という者が高さ1丈の石塔を建てて供養してもらう約束で自首して火焙りになった。しかし高さ1丈の石が見つからず、石塔が建たないでいたところ、村内に火事が多発した。円蔵の恨みと思い、5尺の地蔵を建てたがだめだった。すると円蔵が夢枕に立ってどこそこを掘れ、という。そのとおりにすると1丈の石が見つかり、おさまった。いまでも7人のお坊様を呼び、地区で供養している。
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オニヅカ,カイカ,タヌキ
1936年 香川県
雨霧城の武将の鬼塚八郎右衛門は戦に敗れて落ち延びる途中、敵の雑兵の手にかかって死んだ。村人は八郎右衛門を供養して鬼塚を祀った。後に耕地整理の為に祠が焼き払われたとき、塚を焼き払った線香屋は病床に臥し、「お前は何しに来た」「わしは鬼塚を焼いて悪かった許してくれ」「もう帰ってくれ、もう許してくれ」などとうわ言を言っていた。その夜、怪火が起こって線香屋の一族は焼死したという。村人は、長年鬼塚に棲んでいた狸の仕業だと噂した。
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ヘビ
1967年 福島県
文政のころ、八沢村の阿弥陀寺に大変な数の蛇がいた。中には3メートルばかりのものもおり、子供が近づいても逃げない。寺の小僧がこのことを坊さんに話すと、坊さんは追い払わなくても蛇が好きなものをやればよいという。好きなものは何かと小僧が聞いたところ、坊さんは冗談に煙草のやにだといった。小僧が蛇に煙草のやにを食わせたら、蛇は苦しみどこかへ行った。小僧が寺に帰り掃除をしていると突然発狂したように苦しみ、蛇が腹を巻いているという。坊さんが阿弥陀に祈ると小僧の苦しむのが止んだ。そこで蛇のために卒塔婆を建てたのが八沢の蛇塚だという。
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キツネトタヌキノハカ
1986年 東京都
今、小学校が建っている所は、もとは狐と狸のお墓だった。
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レイコン
1936年 香川県
寺の火事の原因を作った罪で死刑にされたものの墓の木を伐ろうとしたら、霊魂がその人の娘に憑き、子孫までも禍を及ぼすと言うので、石碑を建てて鎮めた。
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キビヅカ,ダイジャ,キツネ
1988年 奈良県
今は奈良教育大学の敷地になっているところに、吉備塚という塚がある。吉備真備の墓といい、触ると祟りがあるという。陸軍歩兵三八連隊の敷地だったときも、取り去ろうとすると変事があったので、動かせなかった。大蛇や狐が住んでいるとも言われている。
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ヒノタマ,ヒトダマ
1985年 愛媛県
明治42・3年頃、東禅寺の新墓から火玉が出たとの話を聞いた。その墓は葬式の翌朝横に穴があいていたので埋めておいたが、次の日に行くとまたあいていたので埋めたという。
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セッカン
1976年 京都府
寛政のはじめ、清水外六坊の修理をしようと前の道を掘ったところ、石棺のようなものが発掘された。すると、それを掘り出した者をはじめ、掘ることを計画した人も暴病に罹り死んでいった。『源平盛衰記』にある怪獣一竹を埋めた塚がこの辺りであるから、きっとこれであるだろうと、石棺に土を盛り上げ小さな社を造った。平清盛が命に従い捕らえた南殿の鵺を埋めた塚ではないだろうか。
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カイカ,ボウコン
1957年 愛知県
寺の僧が子を作り、その子を殺して井戸か床下へ捨てた。その亡魂であちこちから怪火が出て、寺が全焼した。
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エイゾンホウイン
1956年 宮城県
栄存法印は高僧として衆人の帰依が篤かったが,笹町家当主新左衛門頼重が嫉んで讒訴を行い,寺領を悪田とすり替え,住民に神域を掠めさせた。遂に江ノ島に流罪された法印は,笹町家一味及び石巻湊町に対し呪詛の修法を勤行したので,湊町にはしばしば大火が起こった。但し法印を庇護してきた高橋某家のみは災いを免れた。3年後の天和元(1681)年二月,法印は「口に鰹節を挟み,湊町を望む地に身を逆さまに埋めよ」という遺言を残して死ぬが,島民がこれを守らなかったところ関係者が病気となり,島に不漁や凶事が重なったため,改めて遺言通りに埋葬し供養を行った。埋葬場所は現 栄存神社。一方,笹町家では法印の呪いによって当主頼重がしばしば栄存の幽鬼に襲われ,自分の肢を斬ったり息子彦三郎安頼や妻女を斬殺したりした上,発狂した。九族も死に絶えた。享保頃(1716~36),法印の赦免を請い,霊を牧山に移して長禅寺に栄存神社として祀った。今でも旧2月6日の命日を御縁日として祭を行う。
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タタリ
1997年 青森県
明治か大正の頃、おしぎという貧しい女が大根を盗んで殺された。後に祟りがあったので、墓地に地蔵を作った。
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シリョウ
1985年 愛媛県
大正8年3月末、病気になり熱が出た。入院すると間もなく脳症で無意識となり、うわごとを言っていたという。5月になって正気づいたが、祈祷師に頼んだところ「死人のいた処を踏んだので死霊に取り付かれた」といって死霊を壺に封じ込めて夜中に山の中へ埋めたという。後で聞くと通学路の橋で明治時代に殺人事件があった。
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タタリ
1997年 長野県
中原の洞で旅の六十六部が行き倒れて亡くなったので、近くの人たちが葬った。しばらくして近くに災いが起こり、行者を頼んで調べてもらったところ、六十六部の墓を粗末にしている祟りだと教えられ、祀りなおした。
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リュウホウジノシャカ
1956年 宮城県
炭焼藤太が栗原郡金成に建てた福王寺の本尊であったのを、四代藩主綱村がここに移した。当時福王寺は小さい寺になり、本尊は縁の下に放り込まれ、毎年2月15日の祭に子供たちが引っ張り出して縄でしばり、堂の周りを引きずり回して遊び、また床下に押し込んでいた。その後、住職が新しく入寺して本尊を洗って本堂に安置したところ、せっかく子供たちと遊んでいるのに余計な邪魔をするといって釈迦に叱られ、大熱を出しうわごとを言って暴れる。そこでまた元のように床下に放り込んだら、和尚の熱は忽ちさめたという。今も出世の釈迦として信仰を集める。
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タタリ
1937年 京都府
小野木縫殿助公知の墓を破毀すると、その祟りで庵が全焼し、破毀した人物も焼死した。その日はちょうど公知が死んだ日であった。
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