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怪異・妖怪伝承データベース
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検索対象事例

カツオリョウ,オオカジキ
1972年 沖縄県
明治39年(1906)本土より鰹漁が伝えられ、島の漁師も鰹漁を始めた。計佐(けざ)という漁師が鰹漁に邪魔な大カジキを銛にて突いたところ、計佐は夕方に帰港する頃には息絶えていた。

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カメノタタリ
2003年 千葉県
明治の終わり頃,利根川口で機械船が一匹の大きな海がめを生け捕りにし,乗組員はそのカメを料理して食べた。その日の作業が終わって船が港に入ろうとすると,海が急に荒れだして舟は転覆してしまった。ただ一人陸にたどり着いた船員は「カメが,大ガメが・・・」といううわ言を残し,腑抜けになって間もなく死んだ。銚子の漁師達はカメの祟りだとして恐れおののいた。
類似事例

ジゾウ
1923年 静岡県
ある年の6月23日、漁夫たちが漁に出ようとすると、鰹は1匹も獲れなかった。網には木造のお地蔵さんがひっかかっていて、海辺の松の木の下に安置して祀ったところ、大漁になったという。
類似事例

ジゾウカツオ
1922年 静岡県
ある年の6月23日、猟師が鰹漁に出ると、木像の地蔵が網にかかった。その地蔵を海辺の松の木の下に安置して供養すると、網が破れるほどの鰹が獲れるようになった。
類似事例

アジシマノオオニュウドウ
1956年 宮城県
網地浜地区では,漁があると初物を種ヶ崎の神社に奉献する習慣があった。しかし明治の中頃この部落にいた四郎右衛門という鰹船の船頭はとても吝嗇で,獲ってきた鰹を神前に供えず,申し訳程度に社前の海に投げては後でそれを拾って帰るということをしていた。ある夜遅く,眠っているところを雨戸の外から呼び起こすものがあるので出てみると,入り口に大入道が立っておりいきなり四郎右衛門の手をとって外に引き出そうとした。柱に掴まって抵抗すると,敷居ごとミリミリと壊れかけた。大入道は「行かぬなら馬を連れていくぞ」といって厩舎の方に行き,馬も入道もそれきり姿を消した。
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バンレイ
1974年 東京都
天明年中、ある者が鰻を仕入れたが買った覚えのない大鰻が2匹混っていた。裂こうとしたが手慣れているにもかかわらず錐で手を刺してしまった。他の者がさばこうとすると腕に巻きついてきて、尾で脇腹を打ってきた。助けるつもりはないからおとなしくしろと言ったら料理できたが、死体を焼く匂いがした。その夜丑3つ時のころ、鰻の生け簀の所でおびただしい音がして、驚いて行ってみると、上にのせた石はそのままだった。中を見ると多くの鰻が蛇のように睨んだ。もう1匹の大きな鰻は消えていた。
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クロシマネズミ
1975年 愛媛県
伊予国矢野保の内黒島のかつらはざまの大工という網人が、魚を取ろうとして海をうかがっていたところ、魚の入る所は光って見えるものであるが、磯の近くでとても光っている所があったので網を入れた。すると魚は獲れず、少しの鼠が獲れた。陸にあがると鼠は逃げ去った。それ以降この島には鼠が多く生息するようになり、畠のものを食い荒らすようになった。よって今まで耕作する事はない。
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(キトウシ)
2002年 新潟県
大正10年ころ、旧笹神村折居の八所神社を熱心に信仰していた女性に八所神社の神が乗り移った。その人は祈祷師となって人々の病気を治すと評判になった。昭和初期に粟島の釜谷地区から招かれ大漁や家内安全を祈祷した。この祈祷師が粟島滞在中は豊漁であったという。
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ヒカリモノ
1975年 兵庫県
昔允恭帝が淡路島に漁猟した時,海中に光物があり一向に魚がとれなかった。そこで男狭という海人が、縄を腰につけ海底に潜ったところ、大きな鮑をとってきた。中に光を発する真珠があり、その真珠は氏神の社に祭られた。男狭は息切れして死んでしまい,彼が腰につけた縄は60尋の長さであったという。
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[ナナホンサメノタタリ]
1976年 三重県
亀島の漁師の子供が七本鮫という大きい鮫に足を噛み切られた。父親は鉄の大釣り針をもってこの鮫を釣り、復讐を遂げた。数日後、静かな晴天の海で突風が吹き多くの漁夫が水死した。
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ゴンダラ
1956年 宮城県
昔,折立の町外れ(志津川街道)の小川近くの崖上(現共葬墓地)に長者屋敷があった。この屋敷の娘に,いつの頃からか若衆が通ってくるようになった。娘がだんだんやつれていくので,乳母が問いただしてそのことが判明した。化生の者かも知れないということで若衆の裾に糸をつけた針を留めさせ,翌朝家人が調べると血痕が一筋家から小川まで続いていた。海の川口が血で染まっており,巨大な鱈が死んでいた。解体して馬に積んだら五駄分もあったので,以後その地を「五駄鱈(ゴンダラ)」と呼ぶようになった。娘は同じ場所に入水して後を追った。その小川を思い川または毒川と呼ぶようになった。その後,鱈の魚群が小川を遡行しないうちは近海で鱈漁を行わず,またこの折立海辺で一番早く鱈が獲れたという。一説では,若衆が死んだのは長者の家の奉公人達が打ち殺したためと言われる。
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オオイカ,スイシタイ
1940年 三重県
鰹船の漁師たちが、沖で見つけた水死体を無視して引き上げなかった。後日、海で拾った烏賊が一の間(7、8尺四方)に広がる怪異があり、それからも怪しいことが続き、水死体を悼んだ男1人を残してみな遭難死した。
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カイギョ,ヤマメ
1934年 静岡県
明治34年の夏、淵に1尋もある奇怪な大魚が泳いでいた。網を投げると網がズタズタにされるので鎌に長い柄をつけて突き刺して捕らえた。大きさは4尺に近く、暗灰色で虹色の斑点があった。怪魚の正体はヤマメのずば抜けて大きなものであった。
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フチノヌシ,ウナギ
1981年 和歌山県
鍋淵である男がタライに何回りもある大鰻を釣った。気味悪がって吊った男だけが食べたが、口がしびれて腹痛がするので祈祷師に見てもらうと、その鰻がつがいの鰻も釣ってくれと言っているというので、もう一匹も釣って食った。その男は数日して死んだ。淵の主の祟りだろう。
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フチノヌシ,ウナギ
1981年 和歌山県
昭和初年に炭焼きさんがカロト滝の滝壷の鰻を毒流しで捕って食べたら、祟りで死んでしまった。唐傘ほどの太さだったという。拝んでもらったらこの鰻は淵の主で、2匹いたうちの1匹は別の谷に逃げていて助かったということがわかった。
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タコ
2002年 山口県
昔、甚平という漁師が住んでいた。魚を捕ることが巧みで近隣の者は皆知っていた。ある日甚平が岩の近くで魚釣りをしていると、急に船が傾いた。見れば大きな蛸の足が船縁を掴んでいた。甚平はその足を包丁で切って持って帰った。その味を覚えた甚平が翌日も岩へ行ったところ、その日も蛸が現れた。こうした日が5日続き、8本の足が3本にまで減った日に、甚平はこの蛸を捕ってやろうと包丁の代わりに縄を持っていった。それきり甚平は帰らず、主のいない船が夕方に浦へ流れ着いた。村人達はきっと蛸に食われたのだろうと噂した。それ以来その岩を甚平岩と呼ぶようになった。
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ウナギ
1981年 和歌山県
カロト滝の滝壷の大鰻は、大きな音を立てて周辺を歩き回るという。昭和初年に炭焼きさんがこの鰻を釣り、食べたら祟りで死んでしまった。唐傘ほどの太さだったという。
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オオウナギ,タビソウ
1999年
旅僧がやって来て毒流しの漁を止めるようにと宿主に言った。しかし止めさせる手立てはなかったので、申し訳なく思った宿主は旅僧に粟飯を施した。藩主は漁を決行し、多くの魚が川面に浮上した。その中に大うなぎがいて、その腹を裂いてみると粟飯が入っていた。大うなぎが旅僧だったと人々は知った。その後大地震や藩主の早死になどが続いた。
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カツオ,ミナモトノヨリトモ,ハチマングウ
1936年 神奈川県
源頼朝のエボシが海に落ち、その紐に食いついた魚に「カツウヲ」と名づけたのが鰹の名前の由来である。由比ヶ浜に年に1度は鰹が打ちあがるが、これを八幡宮へあげずに食べると病むという。
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スイシニン
1933年 佐賀県
七ツ釜村ののろ松は、火船(漁を指揮する船)が沖に出ていないのに漁に出た。ところが、沖合で火船がしきりに合図をしていたので、自分たちの火船と思って網を入れると、まず水死人がかかり、その後は大漁となった。水死人が身柄を引き取ってもらいたくて灯を点して合図し、引き上げてくれたお礼に魚を授けたくれたのだと人々は言った。
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ウナギ
1982年 千葉県
享保9年7月29日、長さ3間余りの鰻が出た。人足6人で運んだ。
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