アシタケ 1931年 岐阜県 源義朝は青墓の宿をでるときに1本の竹を植え、この竹に「源氏が栄えるなら蘆竹になれ」と言った。頼朝が天下統一を果たし、征夷大将軍になるころ、竹は本当に蘆竹になったという。
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キドウ 1969年 京都府 源頼光が酒呑童子を退治した後、捕らわれていた女はそれぞれの故郷に帰った。けれども1人の女は狂気のため故郷を忘れてしまっていた。その女は、生まれながらに歯の生えた子供を生んだ。その鬼童はやがて都に出て源頼光の弟の頼信を殺そうとしたが、失敗して捕らえられた。
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リュウオウノムスメ,ゴズテンノウ,ゴオウ 2001年 南海の竜王の娘の噂を聞いた牛頭天王は、妻問いに出発する。その途中に巨端将来に宿を請うが拒絶され、蘇民将来に歓迎される。天皇は礼として牛玉を与える。蘇民将来は天王を竜宮まで送る。天王は竜女と結婚して8人の王子をもうける。天皇が妻子を伴って故郷へ帰ることを知った蘇民将来はもてなすために牛玉によって家財を出す。天王は巨端将来の家には疫神を派遣して撲滅し、蘇民将来へは疫病の難からの加護を約束する。天王夫妻と八人の王子は年間各季の行疫神、守護神となる。
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マゴタロウムシ 2002年 1000年ほど前に桜戸という管領の娘を嫁にした要之介という男が、桜戸を取り合った一角という男に殺された。桜戸は父とあだ討ちに行くが、返り討ちにあい、父は殺される。その後、桜戸は孫太郎という子を産むが、虚弱で、7歳のときに重体になった。田村神社に37日間籠もった桜戸は田村明神から「川の小石の間の百足のような虫を食せしめよ」というお告げを受け、それを実行したところ、孫太郎は回復し、その後、田村神社の前で一角を討ち取ったといわれている。
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ウラ 1984年 岡山県 百済王温羅が垂仁天皇の頃一族郎党を引き連れて吉備国にやってきた。略奪の限りを尽くしたので、イセサリヒコノミコトが討伐に派遣された。盾築山、矢掛、血吸川と言った地名はその時の戦いによりついた地名と言う。温羅はミコトの矢に射られ、怪しい技を使い大雨などを降らせ鯉のように逃げた。ミコトは鵜に化身してこれを追い、ついに噛み捕えた。
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オニ 1992年 山口県 源頼光が酒呑童子を退治した時、幕下にいた霞隠鬼が西国に逃げ、白橘山に住みついた。霞隠鬼が里人に危害を与えるので、郡司であった平貞衡は退治することにした。ついに鬼を討ち取り、鬼の首を鉄の串に刺してさらした。それ以来、白橘山を鬼ヶ城と言うようになった。
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ウバハリイシ 1982年 愛知県 内海海岸、御所奥の姥撻谷(うばはりだに)がある。義朝を討とうとする長田が義朝の侍童金王丸に磯釣りへ行かし、義朝を1人湯殿に誘い出した。この変事に気付いて金王丸はそれを確かめるべく帰途の谷で1人の老婆に事実を確かめた。やはりその謀反が現実だとわかり、彼は我を忘れて老婆をなぐり殺してしまった。すると不思議に老婆は固い石となりその石には金王丸の足跡がはっきりついていた。
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カミカクシ,エラブウナギ 1929年 鹿児島県 元暦二年の春、壇ノ浦で敗れた平家一族の何人かは九州から島伝いに南下しある島に上陸、西南山麓の洞窟に居を定めた。食料になるエラブウナギを海岸で捕って携えて帰ったら、兄の松千代の知らない間に松稚が消えていた。恐らくエラブウナギを捕らえた事で氏神の心に背き最愛の子供が神隠しにあったのだろう。
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(イキカエッタムスメ) 2003年 沖縄県 兼城の按司に2人の娘がいた。1人は中山王妃になったが、もう1人は父母の元にいた。この娘が病で死んでしまい、両親は娘を黄金の森に葬った。死後3日目の朝、安平田という男がここで雨宿りをしていると、娘が現れた。娘は熱病で気絶している間に葬られてしまったので、蘇生したことを父母に知らせてほしいと頼んだ。男は城に知らせ、娘は桑篠で作ったサンでお払いされた後に城に戻ったという。
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エンダラオウジ,アワシャリ,ゴズテンノウ 2001年 滋賀県 中国創世神話の神で、牛頭天王と習合する盤古の子、もしくは天竺毘舎利国の縁太良王子は手指を7つに切って日本の方向へ投げた。それが近江の国志賀浦に漂着し、粟舎利という人になった。貪欲な巨端将来が牛頭天王から罪を被ったときにはそこに奉公していた粟舎利の子の蘇民将来だけが免れた。志賀浦に住んだ粟舎利と蘇民将来の親子が、河原の先祖となった。
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サル 1962年 山梨県 推古朝のころ、志羅古という造園の巨匠が猿橋に住み着いた。村長は息子恭任を弟子に、娘の美久里をかしづかせた。ある月明の夜、たくさんの猿が来て手と足をつないで橋を架けた。これをみて猿橋の断崖に架橋を考えていた志羅古は設計を完成させた。休んでまどろむと、急に2匹の猿が飛び込んできて、ここに橋を架けるのなら、病気の猿王様のために申年申の日申の刻に生まれた未婚の男女の生血を差し出せ、そうしなければ妨害するという。志羅古は架橋を強行するが暴風雨のために橋は何度も流されてしまう。志羅古は該当者である自分と美久里とでいけにえになり、あとは恭仁に託し、橋を完成させた。猿に因んで猿橋と名をつけ、猿王を祀る小社を傍らに立て山王宮とよぶ。
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ドウジキリマル,ノロイ,タチ,イブキドウジ 2002年 滋賀県 源頼光が伊吹童子を切った太刀は「童子切丸」とよばれ、これにかかった恐ろしい呪いが所持者に次々に悲劇をもたらしたことで有名。頼光の弟美女丸はそのせいで手のつけられない乱暴者となり、父満仲は家臣藤原仲光に美女丸を討てと命じた。仲光は代わりに自分の息子の首を差し出した。美女丸はこれを知って改心し、比叡山で高僧となった。
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カッパ,アマゴゼンサマ 1935年 福岡県 大積の天疫神社は、平家の大将能登守教経の奥方が壇ノ浦の戦いのときに波間に投じ、ここの海場に流れ着いたのを里人が祀ったという。この女が神となって、海御前様と呼ばれ河童の総元締めになった。5月節句に河童を集めて、「蕎麦の花の咲かぬうちにもどれ(蕎麦の花は源氏の白旗のように白いので)、敵方にあらざる人畜の命は無暗にとってはならぬ」と厳命して解散するという。それから彼らは思い思いに遊びまわり、秋口蕎麦の花の咲くころに山に引き上げるのだという。
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エノキ 「源平盛衰記」では、石橋山の戦で破れた源頼朝が木の空洞に隠れて難を逃れたことが書かれた条に、次の故事が引用されている。即ち、天武天皇が大伴皇子に襲われて不破関に至ったとき、傍らにあった大きな榎木の空洞に隠れて危機を逃れ、後に王子を亡ぼして位についたということである。
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スズキ 1932年 静岡県 多吉山の三石の滝は、流人時代の源頼朝が酒を飲んだ場所。頼朝が片身の鱸を流れに投じたら、そのスズキは泳いだという。
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ダイジャ 1964年 福島県 田原藤太秀郷は平将門の愛妾桔梗の前と恋仲になり、影武者の見分け方を聞き出して将門を滅ぼした。桔梗の前は秀郷を恨み、生国伊達郡藤田村を訪ねたが、秀郷の行方はわからず、蛇身になって菅沼の主となった。人身御供をよこさないと村を泥海に変えるというので、村人は金を集めて娘を買いに行く。下総の周防という浪人が主君の年忌供養のために娘を売った。周防の耳にも人身御供の話が聞こえ、大蛇退治に出かけ、白鳥明神の神通のかぶら矢で大蛇を退治した。この噂を湯野村の阿部道学親子が聞き、武名を上げようと襲ってきたので返り討ちにした。周防は茂庭の領主となり、大蛇と阿部親子の首を祀ったのが三社権現。
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オキナグラ,〔サカサダケ,サカサタケ,サカダケ〕 1956年 宮城県 北女川の邑主、飯田能登の妻お節は、夫が放蕩者であったので同情した用人日塔喜右衛門と不義の仲となり、密会の現場を発見した能登を殺して釜石に逃走。途中、北女川のうしろの翁倉山の肩を越す際、お節は持っていた竹の杖を突き刺したが、のちに根を生じ逆竹となった。二人は釜石で捕らえられて磔刑となる。
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オンナ 1921年 岩手県 美しい娘が桑の葉を摘みに裏山へ行ったまま、行方不明になった。旅の行者は、娘は水性の主に嫁ぐ運命で、閉伊川の岸にある腹帯の淵の主の許へ行き、女王になり、1年に1回は会いに来るだろうと言っていた。この家は、大天馬という氏神を祀る祠がある。九月の祭日の前夜には必ずこの娘が戻ってくるという。
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(オキクノタタリ) 1982年 群馬県 国峯城主の小幡公が侍女の菊ばかりを寵愛したので他の侍女が妬み、公の御飯に針を入れて、菊の仕業とした。菊は蛇責の刑となり、桶に入れられて宝積寺の池に沈められた。日野村の小柏源六が通りかかった時に桶を開けると、大量の蛇と瀕死の菊が出て来た。菊は「このご恩にお家に蛇の害は無いように致します」と言って亡くなった。お菊の母が「お菊が無実なら芽が出ろ」と池の辺に炒りゴマをまいたら、芽が出た。お菊の祟りで小幡家に戦死や切腹の沙汰が続いたので、宝積寺に碑を建てて供養した。
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ナガタガニ 1961年 建久2年に天下を握った頼朝は、源義朝を射殺した長田親子を、大御堂近くの山上で磔にした。その松の下から出た蟹が長田蟹で、魔除けとして吊られる。
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