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怪異・妖怪伝承データベース
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検索対象事例

ヒトダマ
1937年 大阪府
ある夏の宵、船町橋の辺りの川面を飛んでいた人魂を見つけて小僧達が叫び立てたが、やがてそれは消えてしまった。すると筋違橋の辺りの陶器商の主人は、咽が乾いて水を飲みに行ったが、悪太郎共に追われてやっと逃げ帰ったのを夢に見て汗びっしょりで目覚め、夢を妻に話してから頓死してしまったという。

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ユウレイ,バアサン
1937年 大阪府
橋の上で牛車の牛が暴れたために、運悪く、梶棒の先が橋の近くで餅屋を営む老婆の腹を直撃した。老婆は悶絶して死んでしまい、その後老婆の幽霊が目撃されるようになった。
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チョウチンコゾウ
1956年 宮城県
堤通りの東横丁、北七番丁と北六番丁の中間あたりで数年前から時々あったことだが、雨の夜など、提灯を下げて南へ下っていくと、12,3歳の小僧が小提灯を持ってあとさきになって行く。ふと振り向いたその顔は酸漿のように真っ赤なので思わず悸(どき)っとした。北一番丁あたりで消えうせた。そこは以前富岡十之介の屋敷だった。十之介は正徳年中7月15日の夜、妻を町の盆火見物に連れて行き、帰宅するとどういうわけか乱心して、井戸のあたりで妻を斬り捨ててしまった。それ以後、夜更けにそのあたりで妖火が燃え上がり、界隈の評判となった。
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ヒノタマ,ヒトダマ
1990年 香川県
漁に出ていたら、東の方から人魂が飛んできて、高見の島には着かず途中で落ちた。嫁に行っている娘に何かあったのかと思ったが、高見から大阪に行っているよその人が死んだのだった。
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カタキウチザカ
1956年 宮城県
上州の絹商人が、小野の旅宿の亭主に所持金を狙われて殺害される。妻はこれを夢に見て、一子幸太郎と小野に来て敵の家に住み込む。敵が奥筋へ出かけるのを追い、小野の北の丘の坂路で敵を討ったとき老人が現れて助太刀をする。幸太郎は、それを日ごろ信仰する青面金剛の化身だとして、坂の上に庚申塔を建てて去る。
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アヤシビ
1930年 山口県
時化の夜、助けを求める男を階梯に突き落とした船頭は、その辺りの海で怪火や人魂が飛ぶという噂を聞いて船乗りを辞めて貝とりになった。ある貝とりが海底へ潜ると、見知らぬ顔の男が岩にしがみついて死んでいた。男の眉間には生々しい傷があった。
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タマシイ,スイジン
1934年 奈良県 大阪府
鍛冶屋は道で出会った男に馬を借りた。帰宅して後、いくら声高に叫んでも鍛冶屋の声が家人に届くことはなかった。そこへ聖徳太子の一行が現れ、魂を引き出した水神の悪戯を解き、鍛冶屋の体を元通りにした。果たして、鍛冶屋は再び家族に見えることができた。
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イシノセイ
1930年 岩手県
橋に夜な夜な妖怪が現れて人々を悩ませた。ある男が刀で斬りつけると、近所の大日堂の石が切り砕けていた。石は橋の袂で砕けていて、1尺だかりの青石であったという。
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タマ
1936年 岐阜県
夜遅く、代官橋の上である和尚が綺麗な玉を見つけて追いかけた。玉は農家で寝ていた男の口の中に飛び込んだ。和尚が男を起こしてたずねると男は眠れないので橋まで涼みに行ったが悪者に追いかけられたと答えた。
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マツ,カイブツ
1922年 岩手県
上閉伊郡栗橋村字古里に大きな松の木があり、日光を遮っていた。耕作物の邪魔になるので伐り倒そうとしたが、次の日になると元に戻っていて伐ることができなかった。ある日夢に一人の翁が現れ、木の伐屑を毎夕方に焼き棄てれば成就すると告げた。言うとおりにすると木は倒れ、それを用いて船を造った。しかし、不思議なことに船は一夜のうちに姿を消してしまった。あるとき、漁夫が橋野川の川上で得体の知れないものを見つけ、大权で突き刺した。一度帰り、次の日再び現場に行くと何もいなかった。探している内に漁夫は狂い、あたりは風雨となり大洪水が起こった。一夜たつと河口に突如として奇岩が現れた。人々は、漁夫の突き刺した怪物の化身だと言い囃した。
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カッパノヒデンセッコツヤク
1956年 岩手県
旧仙台領江刺郡の北上川畔二子町城下に住んでいた小田島大炊之助という侍の家で,夜厠に女中衆が入ると怪物が出て悪戯をする。主人が夜上厠してみても何事も起こらないので,女装して屈んでいるとやがて冷やりとしたこわばったものが触ってくる。大炊之助がそれを捉え,隠し持った短刀で斬り離すと怪物は叫び声を上げて逃げ去った。よく見るとそれは水掻きのある痩せた腕であった。それから三日目の夜,夢現の中で化生の者が大炊之助の枕上に現れた。跳ね起きて脇差を構えると,化生の者は平伏して「この河の鎧が渕に棲む河童だが,向後悪戯はせぬゆえ腕を返して賜れ」という。切り離した腕を返しても仕様があるまいというと,それには秘薬があるからというので,秘薬の処方と引き換えに腕を返した。河童は妙薬を取り出し,見事に腕を継ぎ合わせてみせた後,その処方を伝授し,帰っていった。手負いの者の治療に大変もてはやされたが,代替わりの後はさほどでもなくなった。
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カイコクノソウ
1977年 神奈川県
昔、病気で死にそうな父のところへ向かう息子が川を渡ろうとしていた。だが、この息子はお金がなかった為、船頭は船に乗せてはくれず、泳いで渡ろうとしたこの息子は川に流されて死んでしまった。後にここを通りかかった僧がこの船頭に人情を持つようにと言ったが、船頭はこれを聞き入れなかった。そこで僧が錫杖を地面に突き立てると、川の水が全てその穴に流れ込んでなくなってしまった。船頭は飯の種を失い、村民からも白い目で見られるようになり、とうとう逃げ出してしまった。
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ユメシラセ
1983年 香川県
宇田津からの金比羅道に天狗橋という石橋があったが、橋を架けた石屋が行方不明になった。ある夜、子供に夢の知らせがあって「剣山で百姓をしているから心配するな」と言って家をガタガタ揺すぶったという。金比羅山のおかげで殺されずに助かったのだという。
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エンノギョウジャ,テング,アッキジャシン
1928年 奈良県
弟子と商人が役行者を納めた石窟に死骸を確かめに行った後、しばらくすると大暴風雨になり、霾(黄砂)が降り、山鳴りや地震が起こった。天狗や悪鬼邪神も現れ、逃げまどっている中で数人が死亡し、生き残った数十人の者たちも半死半生の体でようやく家にたどり着いた。このあと、この石窟を訪れるものはなく、遥拝するにとどまったという。
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ユウキ,(ユウレイセン)
1935年 三重県
庄屋の兼次郎がある小雨が降っている夜に、船に載っていた時のこと。とある童子が驚いて、漂流船が見え、白帆船がこの船に衝突してくると言った。しかし兼次郎の目には何も見えなかった。これは幽鬼のしわざかと思われた。
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アオイヒ,ボウレイ
1929年 鹿児島県
ある夏の真夜中、港に泊まっていた漁船の所に、丘の方から青い火がちらちら輝いて舟に近づいて来た。船頭が目を凝らして見ると白骨の岩窟から亡霊が四五人歩いて来るので恐ろしくなって船室に逃げ込んだ。その姿は舟上で消えてしまった。もしかすると内地から来た人の亡魂が故郷恋しさに船で帰るのではないか。
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ヒノタマ,ヒトダマ
1990年 香川県
朝4時半頃、長男と漁をしていたら、西の佐柳島の方から人魂が飛んできた。青とも紫ともいえぬ色で、長く尾を引いて飛び、海の中に落ちた。明くる日、佐柳島の人が死んだ。
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スイジン,タタリ,ネンリョウガフチ,カネノネ
1929年 長崎県
北有馬村にある淵から水を引いて住民が生活していた。ある夏、土用の入りと同時に水が止まった。庚申神社に祈祷に行くと、三十三日目の晩に老人の夢に庚申様が現れて、田に水が行かないのは淵の水神の祟りだと言った。村人は孕み女を淵に入れて水神に奉った。恋人であった僧は彼女を追って淵に投身して死んだ。その後、土用の入りから三十三日目にこの淵から鐘が鳴る。
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カッパガミサマノミタラシイケ
1956年 宮城県
磯良神社,通称河童神様の御手洗池はどんな日照続きでも水の涸れることがなく,それが用水堀に続いていた。昔,近所の安彦甚之丞という者が,ある夏仲間と二人で用水堀をくぐって泳ぎ回っているといつのまにか水底から水の無い所に出た。そこには立派な家があり,窓から覗くと美しい娘が機織をしていた。「ここは人間の来る所ではない。早く帰りなさい。」「ここに来た事を三年経たぬうちは人に語るな。語れば必ず禍がある。」と言われたので,夢中で逃げ出すと何時の間にか元の用水堀に出ていた。一人はつい口を滑らせてしまい,原因不明の高熱で急死してしまったが,甚之丞はなかなか話さなかった。
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アキゾウヌシガフチ,バケモノ
1967年 福島県
弘源寺の近くを顕蔵主淵という。この近くに浪人夫婦が住んでいたが、弘源寺の僧が、その浪人の妻に懸想して何度も言い寄ったが、婦人は応じず、夫に告げた。怒った浪人は僧を切り殺し死体を川岸に捨てた。その後浪人がこの川岸を通ると、化けものが浪人の前に現れ、その後気が狂って死んでしまった。これは僧の祟りだといわれた。
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アシワセノクマ
1976年 新潟県
御名部の崎という所に粛慎人が船に乗ってきて、春夏漁をしていた。島の人は、これは人ではなく鬼魅だといい近付かなかった。また島の東の禹武という村の人が椎の実を焼いて食べようと灰に埋めたところ、2人の人になって火の上に飛び上がり争い始めた。占いをすると、この村の人は魃鬼のためにまどわされると出て、その通り、掠め取られた。この後、粛慎人は瀬川の浦へ移った。浦の神はあえて近付かなかった。これにより水は減って、その水を飲めば半分は死んだ。これを俗に粛慎の隈という。
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