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怪異・妖怪伝承データベース
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検索対象事例

ロウバ,ホウソウ
1975年 京都府
慶應2年12月、孝明天皇が新築された東宮御殿にお渡りになった時に、老婆が来るのをご覧になり大いに驚かれた。以来高熱を発しついには疱瘡に罹病された。崩御の時には玉体が黒くなり、悪臭を放ったという。

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ホウソウ,サル
1935年 滋賀県
天皇が疱瘡にかかるときは坂本山王の社にいる猿が必ず疱瘡になるという。天皇のかさが軽ければ猿の病も重く天皇の病が重ければ猿はとみに軽くなるという。後光明帝崩御のとき坂本の猿は軽い疱瘡だったという。次の新帝が病気のとき坂本の猿も軽い疱瘡だったが、被衣をあつらえて猿に着させると猿は間もなく死に、帝は本復したという。
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チョウジュ,ホラガイ
1931年 青森県
天明2年5月、角左衛門という行商人が宿泊した家にいた女は、寿永の頃、幼い帝が落ちのびてきたという話をした。何百年も前のことなので角左衛門が不審に思っていると、女は自分の身の上を語りだした。話によると、病気をしたときに食べた法螺貝が原因で年を取らなくなったのだという。その後、角左衛門は女の話したとおりの場所で女の子孫を見つけ、この話を詳しく語ってやったということである。
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オカリヤノイシ
1956年 宮城県
承応3年3月、二代藩主忠宗造営の宮町東照宮が落慶したおり、神体の東照権現の木造坐像を載せた神輿を迎え、ここに仮宮を設け一夜安置した。それ以来大祭の神輿渡御の御旅所となった。石は神輿を据えたときのもので、記念の彼岸桜の老木が残る。この辺で小便をすると気絶したり、道に迷ったり、火のついた燃え木尻が飛んできたり、など、不浄を絶対に禁忌とした。
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ヤクジン
1976年 東京都
天保8年2月下旬、次女の乳母が日暮れに急に寒気立ち、夜着を被って打ち伏せていたところ、翌朝になり、昨夜より風呂敷包みを背負った男が側にいると言った。これは疫神かと、種々の札を枕元に掛けたところ、男は立ち去ったといって全快した。ところが上野の祭礼に主人とせがれとで行ったところ、急に歯が痛くなり、家に帰ると治った。すると乳母が再び寒気を訴えた。そこで刀を抜き乳母を峰打ちにしたところ、男がすぐに立ち去るので、障子を開けて欲しいと言った。障子をあけると乳母はそこで倒れたが、そのまま起き上がり正気となった。早く塩をまいて箒で掃き清めよ、と言った。
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キツネ
1977年 福島県
鳥羽天皇の時代、シナから来た白い狐が天皇の妾になっていたが、祈祷で正体がばれて那須へ飛んだ。山狩りをして狐を打つと流れた血が黒い大きな石となった。石の上を飛ぶ鳥が落ちて死ぬので、源翁和尚が石を割ると三つに割れて飛んだ。そのうち一つが常在院にある。
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ニチリン,チョウウン
1983年
弘化4年12月21日に、日輪に暈がかかり、白気がかかった。
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ハンニャ
1922年 大阪府
明治初年頃、ある若者が大阪である宿屋に泊まった。陰気な部屋に通されたので変えてくれと頼んだが他は一杯とのことだった。牛満頃になると首筋からゾクゾクしたかと思うと誰かが身体の上に乗ってきた。重くて身動きできなかったが、乗って来た者の顔を見ると般若のようで、曲がった角が生えて目がつり上がり、口が耳まで裂けて青い顔をしていた。冷たく生臭い息を吹きかけられ、一晩苦しんだ。女中の翌朝言うには実は色々怪異のあった部屋という。その後他の所に泊っても例の般若が現れるようになった。
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クビナシウマ
1985年 愛媛県
吉川城の殿様は、ある時大殿である河野通宣の機嫌を損ねてしまい、攻められた。結局、赤痢のような病気にかかったせいで攻め落とされた。それからしばらくして吉川城付近である男が首のない馬にまたがった血まみれの武将に出会い、その後三日三晩苦しんだ。同様のことが続くので、皆で墓とお堂を建ててまつった。
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オチエノカイ,タタリ
1939年 岩手県
天明年間のころ、お千枝という女がお手つきになり、殿様の子を産むが、翌年顔を火傷して死んだ。葬式が済んだころから祟りをなしたが、お千枝大明神を祀ると祟るのをやめた。
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スギヤクシ
1956年 宮城県
天平(729~749)の昔、孝謙天皇が御不例で、医薬効なく太史に占わせたところ、陸奥にある高さ数十丈の大杉の枝葉が雲をしのぎ、その陰が皇居に達しているさわりと分り、大納言某を遣わして伐採を命じた。某は築館の地に大杉を発見し伐ったところ、伐り口から血が流れ、翌日はふさがって元通りになる。幾ら伐っても同じことであった。杉の東北の広野にある茅萱を縄とし伐り口をふさげば伐れるという占いによりようやく伐り倒す。切りくずは飛散して一片もなかった。天皇の御病も治り、勅命で伐り口に仏堂を立てた。のち慈覚大師が薬師如来を安置した。
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フシギ,クモニノルヒト
1974年 京都府
弘化2年7月7日ある者が東本願寺へ参詣した。その時突然空が真黒になり夕立でもあるのかと見ていると御影堂の辺から、腰より上は黒く、下は赤い着物を着て、頭は法体か有髪かわからない雲に乗った人が、新たに建設中の大門の上に来た。地震か雷のような鳴動と共に大門は崩壊した。
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ハクウ
1974年 京都府
宝暦13年に後桜町天皇が即位した日、何伝の上に白い烏がいるのを、後日京極の宮の家司である下平儀重が見たとして報告し、賞されたという。
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ムエンボトケ
1926年 愛知県
開墾していたとき、土中から玉輪様の物が出てきたが、気にとめなかった。家に帰ると瘧をふるい、体がだるくなり、口がきけなくなった。無縁仏がついたのだとされた。
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ミヤジマサマ,ダイジャ
1930年 広島県
清盛は安芸の国の殿様だったころ、宮島の神体であった女性に妻になれと言った。女神である宮島様は清盛に、一日の間に千畳の畳が敷ける家を作ることができれば妻になっても良いといった。天子様の落胤で神通力を持っている清盛は難なくそれを成し遂げ、宮島様は清盛の妻になることになったが、その姿が大蛇になっていたため、清盛は舟で逃げた。大蛇は追ってきたが、潮が逆流したために逃れることができた。その後清盛は、日をあおぎ返した罪のため、日の病という熱病にかかり、黒焦げになって死んだ。
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(サイシニヨルヘイアン)
1976年 京都府
安元3年、樋口富小路より出た火は神祇官に及び、御正体が焼失した。その年の11月に、後白河法皇は平清盛によって鳥羽殿へ閉じ込められ、後鳥羽院は佐渡国へ移され、天皇は武家の食客のようになり世が乱れた。元和の頃漸く平穏になったのは、神社を造営し祭祀礼奠を厳重に行って復古したためだ。
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テンペンチカイ
1978年
元禄年中は世の中が穏やかではなかった為、宝永と改元された。しかし天変地怪は続いたので天子は自らの不徳を嘆き、10歳の東宮へ国を譲り、宝永6年より本院御所と称し別に御所を造営し移られた。その後本院御所は奇怪が続き、程なく崩御があったので、御凶殿となり、建物は取り払われ空き地となった。
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アヤシキウリ
1976年 京都府
御堂関白が物忌みの時、解脱寺の僧正観修、陰陽師清明、医師忠明、武士義家朝臣が傍らに侍っていた。5月1日、南都から瓜の献上があったが、物忌み中であるからと清明に占わせた。すると1つの瓜に毒があるという。僧正が念誦加持したら瓜が動き出した。忠明が瓜に針を2本刺すと瓜は止まり、義家が刀で瓜を割ったら中に小さな蛇がいて、両目に針が刺さり首が切れていた。
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ユメマクラ,カミ
1989年 山梨県
孝謙天皇が下の病気で悩んでいたある夜、夢枕に神が現れ、甲斐の国の西山に名湯があるとお告げがあった。女帝はここへ行幸されることとなり、篠党孫左衛門は1党を率いて迎えに行き、ちょうどその1行と出くわした場所をいまでもデェ地という。篠党が女帝を背負おうとすると、その名では負うてもらうためにはいかないといわれたので、以降、深沢と名を改めることにし、女帝を背負って峠を越えた。
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シュテンドウジ,イバラキ
2001年 京都府
正暦3年3月26日に大江山に登る。鉄門があり、酒田公時が打ち破る。都から持参した銘酒を鬼に飲ませる。酒呑童子は肴に人間の腕を取り出す。酒呑鬼は17、8歳に見える美男であった。酔って奥の一間に入り、正体を顕して寝入る。丈は9尺8寸もある。各々声をかけ目を覚まし、一言王の怨みと言い首を打った。その頭は天に飛び上り、頼光の頭に食いつく。渡辺綱は茨羅鬼の部屋に入る。茨羅鬼は綱の姿になる。大勢押しかけたがどちらが本物かわからない。頼光が都の綱には額に痣があるといい、急に眉間の上に痣の出たほうを退治した。外の鬼も撫で
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ショウヒ・コシモト
1980年 東京都
寛政4年(1792)に、江戸の村山にある家に奉公する16歳の婢は長く病気をしていた。腰痛がひどく、次第に痛みが足に移り、また瘡が多く出来たが、翌年の夏には完治した。ただ忽然とその婢は男性になってしまった。
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