センジュカンゼオンボサツ 2003年 愛知県 元正天皇の頃に、勘少と藤六という兄弟が網引きや釣りで生活していた。霊亀元年の春、船を浮かべ小佐が瀬で網を引き上げると、魚ではなく小石が入っていた。石を捨てて場所を変えても、同じことが七回あった。兄弟がその石を船に置いて漁をすると、大漁になった。喜んで帰り夜になると、船の中から明かりが見えた。光っているのは小石で、勘少が家に持ち帰ると、それは千手観世音菩薩だった。二人はさらに堂を建てて千手観音をまつることを願った。すると千手観音が現れ、本身が阿弥陀仏であること、行基に頼むとよいことなどを告げた。行基に頼むと阿弥陀・観音・勢至の三尊を堂に安置された。これを須佐の古寺といい、現在の極楽寺である。
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オイワケニョライ 1956年 宮城県 出羽国寒河江慈恩寺の覚明阿闍梨は、湯殿山の霊夢により弥陀の本尊造像を京の安阿弥快慶に頼む。快慶が精魂を打ち込んだ阿弥陀如来は会心の作で覚明に渡すに忍びず、いまだ出来ずと偽って覚明を帰したが、翌年約束どおりに訪れた覚明に渡すこととなり、名残を惜しみ近江の草津まで見送る。別れるとき笈を開くと、光明がさし一体の阿弥陀像は二体となっており、いずれが本仏とも化仏とも分明せず、二人は一体ずつ負って別れる。よって笈分如来とも身分け如来ともいう。覚明は南北に川が流れ、一本の菩提樹の生えている地を夢に見て、今の地に移した。他の一体は京都市下京区富小路六条角の蓮光寺にある。
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チュウホウソンジャ,テング 1935年 群馬県 龍華院弥勒寺(迦葉山)で、900年ほど前に中興の天巽禅師に師事した中峰という神童がいた。天巽が大法を大盛禅師に伝え、後に憂いがないのを見定めて、中峰は「我釈迦の化身にして既に権化の業を了せり自今上天して末世の衆生を抜苦興楽せしめん」といって両禅師に別れを告げ、案山が峰から昇天したという。当地の天狗面は中峰尊者をかたどったものという。
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ヤマノテラドウウンジ,ダイジャ,シロキツネ 1956年 宮城県 女とその懸想した男が大蛇となってから500年経た暦応元年(1338)、加州金沢の大乗寺三世明峯素哲禅師が陸奥に弘教し、岩沼竹駒神社の初午に参詣した時、老翁からこの話を聞き、その案内で大菅谷保の藤左衛門の家に泊った。翌未明山ノ寺の南の丘に登って大蛇の棲む寺跡の湖水を見、7日の間祈祷したのち一喝して杖を投ずると2頭の大蛇が現れて逃げ去る。そのとき白狐が飛び出して禅師に感謝し、永く寺の守護を約する。禅師が祈祷した地に寺を建て実相寺という。
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ダイジャ 1982年 群馬県 弘法大師空海上人が第二の高野山を捜して袈裟丸山に登ったが、千谷は見つからなかった。尾根伝いに歩いてさいの河原まできたとき、白い大蛇が大師を呑もうと襲い掛かってきたので、経文を唱えたら大蛇は去った。大師は夢で川の中に仏像があることを知り、村人とともに捜してお祀りした。そのときの庚申様がある大沢寺は、大蛇と戦ったいわれがあるので山号が竜宝山。
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ヒカリモノ,ミダ 1974年 滋賀県 親鸞聖人が近江国を行脚している時、湖水に光物が現れて、漁師が困っていたのを聞き、舟に乗って一心に称名して、光が出るところを袈裟ですくったところ、弥陀の尊像が舟に飛びのったという。
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リュウトウ 1989年 石川県 弘法大師が岩動山を越えたとき龍燈が老松にかかり大日如来の尊容が奇雲の間に現れた。よって大師はここに二年とどまり大日尊と聖徳太子二歳の像を安置した。津幡町領家の広済寺である。
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ジカクダイシ,ズイウン,セイリュウ,リュウトウ 1974年 東京都 慈覚大師が東方を行脚していた時に浅草寺でしばし逗留した。ある日白髪の翁がやって来て、東北に霊地があって、私はそこに霊像を安置した。その像は伝教大師が作ったものだと言い終わると姿を消したという。そこで慈覚大師が東北に向かったところ突然瑞雲が立ち、青竜が雲から現れた。庵に入り、仏像を拝んだ。慈覚大師は青竜に対して、ここに寺を造るので加護してほしいと告げる。それを聞いた青竜は姿を消した。その後は時々竜燈の奇瑞が起きるという。
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フドウミョウオウ,ダイソウジョウ 1928年 千葉県 成田不動尊の不動明王は、弘法大師が自ら彫刻したものであった。平将門の反乱に怒った朱雀天皇は、大僧正に朝敵幸福の祈祷をするようにと命じた。僧正は尊像を持って下総に赴き、護摩をたいて調伏を祈り、将門は降伏した大僧正が帰洛しようとすると、尊像は重くて持ち上げられなくなったうえに、霊夢のお告げもあり、この地に留まった。
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シンランショウニンノエイゾウ 1955年 岡山県 親鸞上人が流罪になったとき自らの姿を自書したものが摂州乗願寺にあり、その鏤版を勘四郎というものが受けて持仏堂に安置していた。勘四郎の子も勘四郎であったが不信心な者であった。ある時持仏堂の扉を開くと表具裏打のまま上人の影像が抜け出て無かった。その頃から勘四郎の家は振動し、天井から砂石が降るなどした。信心者の藤五郎がやってきたときには怪異は起こらなかった。ついに勘四郎は仏門に入り、怪異は起こらなくなった。天明7、8年のことという。
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リュウジョ,ダイジャ,コマヅカ 1976年 兵庫県 康保4年の冬、源満仲が能勢の山で猟をした時、夢に竜女が現れて、礼に竜馬を与えるので川下の大蛇を退治して欲しいと願った。目覚めると1匹の馬が傍にいた。満仲はその馬に乗り大蛇を退治した。満仲の死後も馬は生きていたが、やがて死に、家臣の者が馬を山岳に埋めてその上に堂を建て、駒塚山堂と名付けた。その後文明2年3月18日から毎夜駒塚が発光した。慈光山普明寺の住僧が塚で普門品を誦したら、たちまち雷鳴して馬の頭が出現した。住僧はそれを持ち帰り竜馬神と名付け金堂に納めた。
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ダイニチニョライ 1988年 愛知県 天文年間、勅願寺御嶽山光明寺では、兵火を避けて本尊である大日如来を池に埋めた。明暦年間、これを知った長尾村の大島四郎兵衛久成が大日如来を発掘して持ち去る途中、西浦の村人が村の守り本尊だから返せと言って追ってきて奪い合いになった。ところが、西浦の村人が持ち帰ろうとすると、持ち上げることも動かすことも出来ない。長尾の村人が持ち上げると軽々と運べたので、西浦の村人は諦めて帰った。そこで長尾村の大日堂に運び入れて守り本尊にしたという。
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ジョウギニョライ 1956年 宮城県 本尊は、小松内大臣重盛が宋の径山寺仏照禅師に黄金を布施して逆修を営んだとき贈られた阿弥陀如来画像。重盛の遺命により筑後守貞能がこれを奉じ、肥後入道と称して常陸国に隠れ、さらにこの地に永住して平家一族の冥福を祈った。建久9年(1198)7月7日貞能が没するとき、死後墳墓の上に堂を建て、尊像を本尊とせよと遺命したのが起源。仙台地方では、古来、一生一度の願が叶うとされている。
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ダイジャ 1982年 群馬県 善導寺の住持・道阿上人の母が、明徳5(1394)年4月20日、榛名宮に参拝しての帰りに、伊香保の沼に身を投げ、角のある大蛇になった。上人が追善供養をすると、霊夢に母が現れて、元々筑紫広島池の蛇身であったが、仏道の種を得るために人間に化して人の妻となり、上人を生んだものである、よく追善供養してくれ、と言った。
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カメ,ダイカイリュウオオカミ,ダイカイリュウダイジン 1995年 愛知県 明治42年9月10日に身長約6尺、幅3尺7寸、重さ13貫という大きな亀が瀕死の状態で小佐の浜に上がった。その亀は事前に浄土寺の亀岳鶴翁和尚の夢に白髪の老人となって現われ、自分を神に祀れば諸願成就を約束すると言っていた。和尚はこの亀の死後大龍神大菩薩として寺のケヤキの根元に埋葬し供養した。またこの亀の背には奉大海龍大神という文字と共に伊賀上野町の谷村佐助ら一族の名が書かれていたが、これは病気平癒を願った佐助が伊勢神宮に祈願したところこの亀がやはり白髪の老人の姿で夢に現れ大海龍大神を名乗り、のちに亀の姿で現れ病を平癒せしめた際にこれを喜んでその背に書いて海に逃がしたものであるということだった。のち、この神に祈願すれば生活に関することで叶わないことはなかったという。
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コクウゾウソンゾウ 1967年 福島県 虚空蔵堂の尊像は、昔ある僧都が虚空蔵求聞持法を修しようと百日参篭し、5月頃明星が東天に出る時、前川で閼伽水を汲んだら光炎が輝き明星が天堂の内に来影し忽ち虚空蔵尊像として現れたものだという。
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シンラン,ドクジャ 1935年 山梨県 親鸞が東国順化の際に同地の笹子村に住む作太郎から、吉が窪にある古池にお吉という妖婦がこもって毒蛇となり、村民を悩ましていると聞いた親鸞は、阿弥陀経を読みながら小石に南無阿弥陀仏と六字を書いて投げ入れたところ、たちまち蛇は成仏会得したという。この時の小石がそのあたりから発見される。
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ダイジャ 1931年 大阪府 ある沼の淵に大蛇が棲んでいた。近くで蓮如上人が説法するというので、大蛇は美人に化けて熱心にそれを聞いたところ、功徳に感化されて昇天した。上人はその地に寺を建て、大蛇昇天の際に落とした金色の巨鱗3枚を蛇塔に納めた。
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ショウジンブツ 1928年 奈良県 役行者の修練時代、吉野山を上りつめた金峰山に本尊を得るため、17日の間般若心経を唱えたところ、地蔵菩薩が現れた。慈悲円満の顔をした菩薩であったが、強剛な愚民を治めるには柔和な顔ではだめだと思った行者は菩薩を西に向かって投げた。その地蔵菩薩は伯耆国(鳥取県)の大山に飛び去り、そこの寺の本尊になったという。。
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フドウミョウオウ,ダイソウジョウ 1928年 千葉県 成田不動尊の不動明王は、弘法大師が自ら彫刻したものであった。平将門の反乱に怒った朱雀天皇は、大僧正に朝敵幸福の祈祷をするようにと命じた。僧正は尊像を持って下総に赴き、護摩をたいて調伏を祈った。それからすぐに、将門は降伏した。
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