国際日本文化研究センター トップページ
怪異・妖怪伝承データベース
データベース検索ページ 更新情報 お知らせ 怪異・妖怪とは データベース検索 異界の杜 製作者
データベース検索ページ

検索対象事例

コロモノセキ
1956年 宮城県
東北本線槻木・船岡間の白石川鉄橋の北阿元、左岸の旧奥州街道の土手に一本の老松があり、その北に見える東禅寺が中世の衣ノ関跡といわれ、山号を衣関山という。境内に昔小野小町の護持仏を安置してあったという観音堂があり、小野小町手掛松と称する古松もあった。往来の邪魔になるといって元禄年中(1688~1704)伐ったところ、斧をとった者がたちどころに死に、寺僧も気が狂って死んだという。

類似事例(機械学習検索)

メイドウ,タタリ,オノノケヒト,オニビ
1974年 和歌山県
紀伊国高野川の北に非常に険しい山があった。この山に人が登る事があると忽ち鳴動し、樵夫が木を伐ると祟りをなして病気になるという。ある至孝の農民が、病床の母に頼まれた山鳥を狩りに山に入り、鳥は得たが道を失った。杉の陰に燐火と思うものが燃え農民を呼ぶ声がした。見ると貴人がいて、自分が祟りをなしていた、地面の下を探って寺に移してほしいと言う。山を下りて後、法師と山を探ると骨があり、それは小野毛人のものであった。
類似事例

ホウイントミカタノマツ
1956年 宮城県
法印の墓印として植えられた松がぐんぐん成長して根回り18尺,枝10間四方の巨木となり,「三方の松」として霊木視されていた。昭和29(1954)年同部落で毘沙門堂の修理に際し,その資金に当てるため土地の所有者小島某が三方の松を材木商に三万円で売り渡した。材木商は地元では頼めず他町村から雇い入れ,上斧入れの前には僧に回向を頼み,部落民に供養の振舞もした。祠堂のためだから祟りもあるまいと思っていたが,伐採から一年足らずのうちに樵二人と所有者小島某が相次いで亡くなってしまった。部落民は因縁の恐ろしさを囁き合ったという。
類似事例

クビヅカ
1956年 宮城県
寛文頃(1661~1673),津谷東禅寺住職木陽和尚は学徳が高く尊敬されていたが,無実の罪で訴えられ打首に処せられる。和尚は村の方を睨んで,「もし罪名の如く破戒の罪があれば我が首は地に落ちるが,無実なら首は飛び上がるだろう」と言い残した。刎ねられた首は何処ともなく飛んでいき,その後村に怪異が続いた。食事中血塗れの腕がぶら下がってきたり,夜更けに怪しい呻き声が聞こえたり,針仕事をしている女が後ろ髪を掴まれて引き倒されたりした。1,2年後,日山という托鉢僧が秋の夕方野路を通ると,後ろから自分の名を呼び止める声が聞こえるが姿が見えない。よく見ると一人の僧形の姿があり,「自分は無実の罪によって刑死したが,供養する者もなく,妄執で浮かばれず迷っている。供養してもらいたい」と頼んだ。翌朝その辺りの草叢を調べると,石に噛り付いたままの骸首が見つかった。日山が懇ろに弔ってやると,その後村の怪異は絶えた。村人達も供養碑を建てて厚く祀り,参詣者が絶えなかった。
類似事例

イシバシノウエノオオニュウドウ
1956年 宮城県
江戸時代のなか頃、古川市新田中宿を流れる小川の石橋に、夜になると大入道が現れるという評判がたち、人の往来がたえてしまった。たまたま岩出山の武芸者がこれを聞き、ある夜そこに行くと大入道が現れた。切りつけると手応えがあり、それは消えてしまった。翌朝検分したら石橋が斜めに切られていた。よく調べるとその石は南北朝戦争の際討死した北朝武士の碑であった。その碑は現在子松神社の境内に祀ってあるという。
類似事例

ムネワリアミダ
1956年 宮城県
昔、この寺の住職が京の戻りに木曾街道で追剥にあったとき、傍の大木が突然倒れ追剥は下敷きになって死んだが、逆恨みに和尚をにらんだ目つきが忘れられなかった。寺に帰って留守中に生まれたという門前の家の子供の見舞いに行き、赤ん坊を抱いたところ、和尚を見つめた赤ん坊の目つきが追剥の今際の際の目とそっくりだった。和尚はついに乱心し赤ん坊を殺したので、磔に決まった。寺の前は七北田刑場への引き廻しの道筋で、処刑の日に小僧たちは泣きながら見送り本堂に引き上げると、パチッと音がして本尊の阿弥陀如来の胸がタテに三寸ほど割れた。京へ送って修理したが寺に帰ると割れる。何度修理しても元にもどらず、そのままになっている。
類似事例

オオスギ
1967年 福島県
小針の南に大杉の跡がある。この大杉の枝は朝は西郷にかかり、夕は東南の郷の障りとなっていた。このため上様に訴えこの杉を切ることになった。大勢の人足で切ろうとしたが、切りくずが毎夜大木の根に取り付いた。ある老人が切りくずを燃やせというのでそうしたら切り倒すことができた。その木を福島城の橋にしようと運ぼうとするが、毎夜、来た道を戻ってしまった。二子塚の守子女に木遣り音頭を取らせると木が軽くなり、橋を掛けることができた。この橋は夜になると人の音がするので渡る人はいない。
類似事例

フリソデザカ
1956年 宮城県
生前に法華経を信仰していた仙台城下大町の町人の娘が、死後亡霊となって身延へ参る。富士川べりで、陸奥に下る身延の千ヶ寺参りに会い、振袖の片袖を千切り、これを証拠に仙台の実家を訪ね念願が叶って身延山に着いたことを知らせてほしいと頼む。千ヶ寺参りが仙台の娘の家を訪ねると四十九日の日であった。両親は振袖の片袖を榴ヶ岡釈迦堂のうしろに埋めて塚を築く。これを振袖塚と称し、仙台管区気象台と県図書館の間の坂を振袖坂という。
類似事例

バンザン,テング
1956年 宮城県
もとの名取・宮城の郡境にまたがる根張りの広い山。弘法大師は山容を蓮葉にたとえ、霊場にするため九十九谷まで開いたが、天狗に妨げられ一谷を残して紀州に去り、高野山を開いた。慶安3年(1650)慈光不昧禅師雲居和尚が瑞巌寺を引退してここに隠居したときも、天狗どもが和尚の法力をためそうといって和尚の障碍をしたが、この山を根城とした万二万三郎兄弟が和尚のために天狗を追い払った。和尚はこれを徳として、山上に坐禅堂を建てたときに二王護国大権現の号を贈って一山の鎮護とした。
類似事例

シンボク,マツ,シンバツ
1976年 千葉県
文化の始の頃、下総国海上郡銚子郷から2、3里ほどの所で、ある寺で普請の為棟木を求め近所の社の松を伐ったところ、側の楠に松が倒れ掛かりそのまま楠の幹に付いた。神主や寺僧は発熱して6,7日で発狂して死んだ。松を伐った人も発熱したが、命乞いをしたので助かった。下野の飯岡古崎神社にも同様の話がある。
類似事例

アコヤマツ
1956年 宮城県,山形県
実方の娘の阿古屋姫は千歳山麓に来て庵を結び,父の冥福を祈っていた。秋頃から男が毎夜姫の許に通ってきた。その頃陸前名取川の橋が洪水で流され,占いの結果千歳山の老松を橋にすれば流れないといわれたので,名取の里人はその木を買い取った。しかし松は非常に堅く,ようやく少し伐り込んでも翌日になるとその痕跡すら消えている。伐り屑を焼くと仕事が捗るようになった。松が伐り倒される前夜,姫の許に通ってきた若者が自分の正体は老松の精であると明かした。数日後,松の巨木が運び出されることになったがびくともしない。これを聞いた姫が巨木の背中を撫でて打ち乗ると大木は動き出したが,姫が降りると動かなくなる。柴田郡の古関で姫が懇ろに松を諭したので,その後は無事名取川の辺に着いた。
類似事例

ダイジャ
1930年 静岡県
昔、爺さんと娘が行方不明になった。村人が山を捜索していると生臭い風が吹いてきて、水風呂桶のような頭の大蛇が現れた。そこに南部六という猟師が現れ、大蛇を退治しに向かったが、大蛇に殺されてしまった。その後、南部六の双子の娘が父の横死を知り、観音の加護をもって敵を討った後、巡礼の旅に出た。村人は蛇の祟りを恐れ、高徳の坊さんを頼んで蛇骨を埋葬して堂を建て蛇骨山大蛇院と名づけた。
類似事例

ディラボッチャ
1915年 長野県
東筑摩郡中山村と壽村および松本村との境に立つ中山と弘法山は、2つまとめて法螺貝山と呼ばれている。この山は、ディラボッチャが馬藤(葛蔓)を背負って鉢伏山から来る途中、藤が切れて取落としたものだといわれている。そのため、ディラボッチャは西山行きを見合わせ、里山邊村の方面に迂回して去ったという。鉢伏山登路附近や松本村附近に足跡があり、これを雨池と呼んでいる。
類似事例

トビ
1975年 京都府
永承の頃、西塔の僧が京に出た帰りに、東北院の北の大路で、子供たちにいじめられていた鳶を助けた。その帰り、藪から法師が出てきて先ほどの礼をしたいという。僧が霊山で釈迦の説法を聞きたいと望むと、法師は下松の上の山に僧を連れて行き、ここで説法の声が聞こえるまで目を閉じて待てという。ただ、信心を起こしてはならないと告げた。その通りにしていると、説法の声が聞こえてきたので目を開いたら、紛れもなくそこは霊山で、釈迦を中心に菩薩衆などがいた。おもわず手を合わせたら、山が鳴動して草深い山になった。
類似事例

エノキ
1929年 東京都
石神井川で川越街道を横切るところに下頭橋がかかっている。数百年も前のある日、一人の僧が旅の疲れを癒そうと此の橋の袂で休んだ。その時横に立てた杖の下から榎の樹が生えて長くのびた。現在はこの木の根株を祀っており、歯痛に効果があると参拝する人も多い。
類似事例

ソデフリチョウノユライ,フルダヌキ
1956年 宮城県
仙台市小田原の一角に蜂谷屋敷と呼ばれる地域がある。そこはもと蜂谷長者といわれた蜂谷定国の屋敷で、藩政時代その一角に栗の古木があった。その頃夜になると老樹の下に、振袖姿の白い顔の女が佇んで、小路を通る人にニタニタ笑いかけたといわれ、その通りは夕方になると通行が途絶えてしまった。それを聞いた剣客狭川新三郎が夕方に出かけると、やはり怪しい振袖姿の女がニタニタ笑いかけた。新三郎が小柄を投げつけると、キャッと声を立て手応えがあって、女の姿は闇に消えた。翌朝調べると、劫を経た古狸が咽喉を刺されて死んでおり、それ以来妖異は絶えてしまい、誰ともなく袖振丁と呼ばれるようになった。その後、誰が建てたのかこの屋敷内に狸塚とよぶ小祠があり、明治の頃まで残っていたという。一説にこの通りの屈折の形が振袖に似ているからともいわれる。
類似事例

シロザル
1992年 宮崎県
ある男が、諸塚と椎葉の間の槙の大木を切り出そうとしたが、容易に倒れなかった。それは市山大明神の神木だからだと知り、京都滝口大明神の印入りの斧を用いて倒した。そのとき、槙の大木から白猿の夫婦が飛び出し、悲しそうな顔をして去った。男は木を川に流して美々津まで行ったが、猿もついてきた。その夜、槙は不審火で全焼してしまった。白猿の夫婦は市山大明神のお使いだった。
類似事例

テング
1967年 福島県
護法山頂上の笠かけ松は、昔、天狗が人をさらっていって、その人を掛け、また衣類をさらした松だという。人かけ松・笠かけ松といって2本あったが、今は人かけ松は枯れ、笠かけ松のみ残っている。
類似事例

クビノセジゾウ
1931年 大阪府
昔高野山通いの道の途中に休憩所として辻堂があったが、そこでは夜な夜な奇怪なことがあった。ある夜、通行人は化生の者を討ち取ったが、夜が明けてみるとそれは石地蔵であった。以来、その地蔵は首截地蔵と名づけられ、諸祈願に験があるそうだが、截られたときの太刀疵が現にあるという。
類似事例

ウバガコシカケ,フルダヌキ
1956年 宮城県
昔、永沢善王寺に栗の大木があり、幹の中ごろが二股に分かれて「姥が腰掛け」と呼ばれ、それと相対した枝の別れは「童子(わらべ)の腰掛け」と呼ばれていた。夕方などに時折、一方には白髪の老婆が、向かい合った方には童子が腰をおろし、麻編みなどをしているのが見られたという。ある時鉄砲自慢の男が狙いを定めて発砲したが、老婆がニタニタと笑ったので、気味悪くなって逃げ帰ったということだった。古狸の仕業と噂された。この老樹は昭和の初めごろに伐り倒されて今はない。
類似事例

カンサブロウノボウレイ
1961年 山梨県
石和町地内の笛吹川上下3里は殺生禁断になっていた。鵜使の勘三郎はその禁断を犯し、石和町四日市場の岩落の淵で柴漬にされて殺された。勘三郎の亡霊は毎夜現れてこの地の人々を悩ました。文久11年夏に日蓮上人が訪れ、河原の石に1石1字宛法華経を書写して川に沈め、3日三3晩施餓鬼供養を行って亡霊を慰め、それ以来現れなくなった。遠妙寺には経文石が残されているという。
類似事例

国際日本文化研究センター データベースの案内