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怪異・妖怪伝承データベース
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検索対象事例

ゲンベエヤシキ
1955年 山梨県
源兵衛が最後まで残った屋敷の跡の田圃を源兵衛屋敷という。源兵衛は名うての豪家で毎月慈観寺に碁打ちに出かけていた。ある日源兵衛が和尚に手相を見てもらうと、終いには乞食になるということであった。源兵衛は「どんなに寝食いに食っても3代はある身代だ」といったが、厄病と火事との重なる事件のため、明治維新頃には乞食となり、どこで終わったか知る人もないという。

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ヤシマノハゲダヌキ
1922年 香川県
屋島の禿狸は源平屋島合戦の時、木の上に登って戦を見物して行ったのでその一部始終を知っている。その後禿狸は八栗寺に移して、屋島の合戦を演じて四国における狸大将として暮らしていたが、ある時狩人に殺されたという。これは禿狸が死後人に乗り移って話した身の上話という。また祖父母の話では、嘉永安政頃、阿波西林村の女髪結の体を借りて、吉凶その他を予言したり、他の狸憑から狸落しをしていたという。日清日露戦争では多くの乾分を従え、満州へ出征して大いに働いたという。
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ヤマイヌ
1943年 長野県
弘化一年、百姓代理の源兵衛が五月雨の降る夜に六万坊という谷越し難場に入っていったところ、山犬がついてきて襲い掛かってきたので、それを刀で切った。次の日、見事な狼が胴真中を斬られ、ふたつになって死んでいるのが発見された。
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テクラダ
1956年 宮城県
貧しい者に高利貸しをして金持ちになった弾三郎という者がいた。ある時、貧乏人の女房が着物を質に金を借り、のちに返しに行く。弾三郎は期限切れを理由に着物を渡さない。母の形見だからと泣いて頼むが断られ、女は間もなく病死する。翌年弾三郎が蔵を開いて虫干ししていると、質物にとった着物の袖からやせた女の腕がのびてきて弾三郎の顔を撫でたので彼は気絶する。弾三郎はそのまま病死、続いて家内残らず死に絶え、屋敷跡は田になり、手倉田といった。
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コガネ,ハクギン,ドウセン
1931年 兵庫県
あるところに、労咳で全員が途絶えた豪家があり、化物屋敷という噂が広まった。そこにひとりの六部が泊っていると、丑満頃に白、黄、黒の絵衣を着た3人の僧が入ってきて、寝ている周りを3回まわり、訳のわからない経を唱えて帰っていった。後をつけると馬小屋で消えたので調べると、黄金、白銀、銅錢が埋めてあった。この六部が三井家の祖先であったともいわれている。
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ネコ
1973年
鳥井丹波守の家令・高須源兵衛の家には長年飼っていた猫がいたが、ある時ふと姿を消した。その頃から源兵衛の老母が人に会うのを嫌い、猫のように食事をした。これは猫が化けたかと思った源兵衛は、雁股の矢を母に撃った。すると母は庭に出て倒れたが、姿は母のままだった。しかし一日経ったら飼っていた猫の姿に変わった。そして母の部屋の床下から、その骨が出てきたという。
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テング
1992年 三重県
慶応時代、関ヶ原の合戦で落ち武者となった権兵衛という男が、下野代に住みついた。しかしあるときどこかへ行ってしまう。鐘や太鼓で探し回る。3日目に古野の山から天狗にもらった木の葉でつつんだ団子を持って出てくる。天狗が寺や神社に連れて行ってくれたのだという。空を飛んでいったという。後に権兵衛は死んだ。
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ゲンベエブチ
1956年 宮城県
昔,渕の崖上に源兵衛というものが住んでいた。梅雨頃,夜更けに若い女がきて「私はこの渕の主の鰻で,明晩川上の賢渕の主の蜘蛛と一騎打ちをする。その時あなたが『源兵衛ここに控えおるぞ』と声を掛けてくれれば勝てるのでよろしくお願いします。」というので源兵衛は承知した。翌晩鰻と蜘蛛の大合戦が始まったが,あまりの怖ろしさに源兵衛ここにいるぞと言えなかった。翌朝見ると鰻の首が噛み切られて源兵衛の家の方を睨んで浮かんでいたので,それを見た源兵衛は気が狂って死んでしまった。その後この渕を源兵衛渕と呼ぶようになった。町の人々が供養のために建てた小祠が近年まで残っていた。
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テング
1922年 岩手県
寛政の頃、源氏の末裔で由緒ある家柄の女が失踪した。足腰も立たぬ大病であったのが、裏口から草履を履いて出て行ったのである。女の年齢は33、4歳の厄年前後乃至40年増盛りであった。天狗に連れ去られたとも言われる。
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〔キュウキ〕・ビンボウガミ
1973年 埼玉県
文政4年の夏頃、番町のある武家の用人が、主用で下総の知行所までいく途中、草加の宿でみすぼらしい身なりの法師に会う。話を聞くと法師は貧乏神で、番町の武家から出て行くという。これまでは先代両主の遺徳によって家は滅びず、また他家に移るのでこれからは繁栄すると言った。実際にその家は豊かになり、貧乏神が移るといった家は衰えたという。
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コギツネトショウベエ
1956年 宮城県
昔、あるところに正兵衛という鉄砲ぶち(打ち)がいて、つる橋の上でつるにからまって動けなくなっている小狐を助けた。正兵衛が家に帰って菜っぱ汁をたいていると、鍋がさっぱり煮立たないので開けてみると小判がいっぱい入っていた。そこへ来て、わけを正兵衛から聞いた慾兵衛は、「その狐、腹の中いっぱい小判だべ」と出かけ、小狐を打ち、腹を割くと小判がいっぱい出てきた。しかし家に帰って見るとそれはすべて馬の糞だった。正兵衛は、今回の件で殺生は悪いことだと後悔して百姓となったが、その田も畠も上作で、だんだん金持ちになった。一方慾兵衛はその後猟もなくなって貧乏になり、夜逃げしたという。
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イキミタマ
1974年 埼玉県
武州熊谷に近い上吉見村に住む坂田喜兵衛は長く煩っているが、ある雨が降った時に竜梅院の住持が仏前で拝んでいると喜兵衛がいた。住持は快気を喜んで後から祝いの使者を送ったが、喜兵衛は最期の時を迎えていた。先のは喜兵衛の魄がやって来たのだろう。翌日喜兵衛は死んだという。
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ゲンベエブチ
1956年 宮城県
昔1人の僧が、毎年盆中に米ヶ袋の家を歩いて棚経をあげ、盆棚のお下がりを馳走になっていたが、何年たっても年を取る様子がない。ある年、またやってきて一軒の家で麦飯を馳走になる。そばで3,4人の若者が下の渕で毒流しの相談をしているのを聞きつけ、盆中の殺生は止めなされと固く戒めて帰る。源兵衛という者が跡をつけていくと僧は渕の中に消える。源兵衛が毒を流すと大鰻が浮んだので割いてみると、腹の中から麦飯が出る。
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キュウキ,ビンボウガミ
1973年 埼玉県
文政4年の夏、武家の家の用人が所用の為知行所へ行く途中、草加の宿あたりで40才位のが顔色青黒い痩せた法師と会った。聞けば用人の主家に住む貧乏神で、三代前から用人の家に住んでいて、そのため家は病がたえず貧乏だったのだと言った。驚いていると、私は他所へ移るからお前の主家は借財等も返せるだろうと言う。越谷まで来たあたりで、どこかに行ったのか見えなくなった。
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クロギツネ
1931年 北海道
昔、松前家が13代道広公の時、尻内山に黒狐がいるという噂が立ち、殿様がその川で裘を作ろうと、家臣にそれを命じた。狐を撃とうとすると暗闇になったが、原谷伴蔵という家臣が「君命だ」というと黒雲は晴れ、黒狐を撃つことができた。この肉を食べた中津源兵衛はやがて聾になり2、3年で死んだ。その後毎夜狐が現れ「皮を返してくれ」と哀願したが、殿様は皮を返さなかったという。
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ジロベエサマ
1977年 静岡県
次郎兵衛という者が名主たちの悪事を書いた書付を見たため首を斬られることになった。当日、親しい家の前で次郎兵衛が「首を斬られに行くよ」と言ったが、家人は気の毒で顔が見られず、家から出なかった。それから、その家には障りがあるという。
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(ヨゲン)
1974年 大阪府
難波鳥屋町で、身持ち正しい若者が行方不明になったが、叔父の神仏への祈りのおかげか、3年後に帰ってきた。しかしまた行方不明になり、今度は叔父が金比羅を深く信仰したおかげか、6年後に帰ってきた。その後、家や町内のことの預言が当たり、「天狗六兵衛」というあだ名がついた。後にまた行方不明になった。
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〔ジョウゲンチュウ〕,オキクムシ
1974年 滋賀県
近江国志賀郡別保の里に常元やしきと俗称される家があり、ここに居る者は必ず禍があるという。その故を尋ねると、蒲生家の侍だった南蛇井源太左衛門なる無頼が諸国で悪行を重ね、生まれ故郷の別保に帰って剃髪して常元と称した。慶長5年に以前の罪で捕縛された常元は、その家の柿の木に縛られて最後には斬られた、しかしその骸を木の根本に埋めたところ、数日後、顔や目口鼻がある人を縛っている姿に似た妖しい虫が、毎年多く墳上に現れて、蝶に化けて消えたという。人々はこれを常元虫といった。
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シミズバタケ
1942年 京都府
昔当尾に清水兵庫という者がいて、その屋敷地が今畑となり清水畑という。その畑を持つと滅びるという。今は大和の島川の人が持っているが、それまでに3軒の家が滅びた。1件は大庄屋までした家だったが、その息子が奈良へ遊び散財し滅びた。ある1軒はだんだん貧乏になって借金の利子も払えなくなった。今の持ち主も息子が狂気になったという。
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ハト
1973年 東京都
御先手頭である山本源八郎の家紋は鳥居に鳩であるが、吉事がある前には鳩が集まるという。元は新御番という役目だったが、鳩が家に入ってくる度に出世していったという。
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ヤハタダノタタリ
1969年 福島県
八幡様の屋敷跡が田圃になっている。その田を作っていた人は次々と一家が死に絶えたり、病人が絶えなかったりした。
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