(ナナフシギ) 1956年 宮城県 満興寺(まんこうじ)は曹洞宗、永徳2年(1382)の開山。伊達政宗が狩りに行くたび休息したという元の建物は政宗の造営で、その位牌を安置する。境内に一夜で生えたという樹齢数百年の桂があり、山号を大桂山という。七不思議で名高い。
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アラマキノモンジュ,ユメノツゲ 1956年 宮城県 相馬中村の山伏佐藤八大院長秀は、弟甚次郎定次と共に父の仇の山伏上之坊を大和大峯の果無し峠に討った。仙台に移って伊達政宗に召しだされ、嶺八郎と改めて禄若干を賜る。ある日文殊菩薩の埋木像が賢渕に沈んでいるのを夢想の告げによって引き上げ、これを本尊として荒巻山街道沿いの丘上に堂を建てた。昔は女の子が13歳になれば、知恵を授かるといって必ず参詣した。
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ジゾウボサツ,セイメンコンゴウ 1983年 愛媛県 柿の木部落に地蔵菩薩を信じる兄と青面金剛を信じる弟がいた。弘法大師がやってきて兄弟に感心し、それぞれ仏像を刻んだ。後世、松が鼻に地蔵堂を、松尾坂麓に青面金剛の堂を作った。乱世で失ったが、その後北宇和群広見町深田の庄屋河野勘兵衛通行が松が鼻で石を枕に寝ていると夢地蔵菩薩が現れ、掘り出して供養すれば婦人のお産を安泰にする、と告げたので掘り出して祀った。これが現在の子安地蔵である。その後再び夢のお告げと二匹の猿の導きで松尾坂の青面金剛も掘り出し、お堂を造り祀った。これが現在の庚申堂である。
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マツモリジョウ 1956年 宮城県 一名を鴻ノ館という。伊達政宗が国分盛重をこの城に攻めたとき、入沢乙から水を運んでいるのを村の一老人から聞き、水の手を絶ったが、城方で水を流して馬を洗うのが見え、不審に思っていると鳥が(水にみせかけた米に)群がり集まったため計略がばれた。その日は正月三日で、政宗方の門松が折れたので、家老が不吉の前兆であるから城攻めを見合わせて欲しいというと、政宗は松が折れたのは松森が落ちる吉兆だとして一気に攻めおとす。水の手を教えた老人は祟りをうけて死んだ。
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キノシタノヤクシ 1956年 宮城県 伊達政宗が大崎義隆と戦って旗色がわるかったとき、48人の法師武者が現れて敵を切り崩し、伊達勢に勝利をもたらした。政宗が「いづこの御僧か」と尋ねると、宮城野の木ノ下の住人とのみ答えて姿を消した。家臣に調べさせると野中に石殿があって薬師如来が安置してあった。その夜、夢の告げでこの薬師如来の加勢であったことを知った。
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イツクシマミョウジン,ゴクラクヤマノカンノン 1978年 広島県 平清盛と常盤御前の間に生まれた天女姫は十四の時痘瘡にかかって死ぬ。清盛は厳島明神に埋葬卜定の事を祈ると、これより東方七里の所に赤旗が立っている。そこを墓地とすれば姫は疱瘡神となって万民を守る。という託宣を得た。清盛はそこに姫を埋葬し、洋上から西方の極楽山の観音を拝して別れを告げると、観音は「疱瘡となった姫と協力して衆生済度する」と誓い、向洋の岩鼻巌頭に菩薩像を現し、やがて消えた。
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オノノコマチノレイ,ビジョヅカ 1976年 山形県 京都で深草少将が小野小町に恋して通い詰めたが小町は応えず、少将は思いを遂げず急逝した。その恨みからか小町は病となり、死を前に父に会いたいと北国へ向かった。米沢の山中で小町は病に倒れたが、現れた薬師如来に小野川の湯を教えられ平癒する。しかし塩井で亡くなったと言う。そこに村人が地蔵を立てて葬ったのが美女塚であると言う。その200年後、旅僧が読経すると小町の霊が現れ、米沢の呉服商の清欒が少将の生まれ変わりと言う。これを知った呉服商は間もなく病で死んだので、美女塚に対して西方に美男塚を作って葬った。異伝も多い。
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ジョウエンボウヅカ 1956年 宮城県 東照宮の下、東側の延寿院にある。東照宮別当仙岳院の僧浄円は足が速く、飯釜をかけて炊き上がらないうちに出羽の羽黒山に往復した。師の坊が重病で最上の豆腐を食べたいといったところ、即座に買ってきた。一生のうちに羽黒山に238回往復したという。元禄12年に76歳で示寂。鉄のワラジや大小のワラジが奉納してある。水疣が治るといわれ、お礼に酒や餅を塚に供える。
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ツエギンナン,ニチレンショウニン 1967年 山梨県 日蓮上人が身延入山の頃、穂積村の善智法師が上人と法論をして負け、それを恨んで弟子に明治上人を上沢寺に招き毒の萩餅を出した。日蓮は庭にいた白犬にその餅をひとつ投げ与えたところ、犬は悶死した。両僧は隠しきれず非を悔い日蓮宗に帰依した。日蓮は身代わりとなった白犬を哀れみ寺の境内に葬ってその上に銀杏の杖を立てた。その杖に根が生え成長したのが上沢寺の逆さ銀杏で、この木に触れただけでも体の毒が消えると言われる。実は安産のお守りとなるという。
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オニサンタセンニン,セイエツ 1931年 岩手県 衣川に異人がいて、坊主頭で眼光鋭く、名は名乗らず、文武両道を談じ、子どもの癇の呪いや占いをした。礼は受け取らず、枸杞茶を好み、朱塗りの箱を1つ持ったきりだった。伊達政宗が無理に召して箱を開けると、三軸三翰三張と観音像があり、その像に鞍馬東光坊から鬼三太に与えるとあって名がわかった。昔の事を尋ねられると、たいていは忘れたがと言って、義経主従の最後を語った。
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フドウミョウオウ,テンジン,ハゴロモ 1967年 福島県 三浦左近国清という人が太田村別所に住んでいた。世継ぎが無いことを憂い、馬場村の滝不動に美しい妻が得られるようにと祈願した。すると夢に不動明王が現れ、現世には配すべき女がいないので、五台山の奥の池で天人が水浴びをしてるゆえ、その羽衣を取れと言った。国清はその通り山に登り天人の羽衣を取って家に帰った。やがて天人は気付き、国清の家に行き羽衣を返して欲しいと願ったが返されず、ついには夫婦になった。二男一女をもうけたが、やがて子供たちが大きくなったから別れても立派に育つと言い残し、天女は羽衣を着て天に昇った。国清は悲しんだが、娘はそれにもまして悲しみ、ついには池に身投げして死んだ。中太田に姫塚と呼ぶ塚があるが、この姫を祀ったものといわれる。
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ナベヤクシ 1956年 宮城県 文禄元年(1592)、征韓役に伊達政宗が岩出山城から出陣の途中、軍神の血祭に七ツ森で巻狩りを催したところ不猟で、政宗は機嫌をそこねて大森山へ登る。向こうに黒いものが見え、片倉小十郎に尋ねると、薬師如来だという。不猟の腹いせに鉄砲を打ち放つと、鍋薬師の胸が割れ、同時に政宗の鼻から血が出て止まらない。小十郎は三拝九拝して謝り、笹の葉で拭ったところ鼻血が止まる。政宗も乱暴を悔い、ふもとの周りに道をつけてお留め山にしたという。一説に、射た矢が刎ね返ってきて眼に刺さり、それで政宗は目ッコ(片目)になったとも。
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トケイイナリ 1956年 宮城県 宇津野左衛門四郎為忠という郷士の屋敷に、年を経た白狐が棲む。ある夜賊に襲われ、左衛門四郎は悉く賊を斬ったが最後に相討ちになり深手を負って死ぬ。間もなく息を吹き返すと、身に一痩も負わず、傍に白狐が斬られて死んでいた。主人に化して賊の目を欺き、身代りになったのだった。埋葬した場所に稲荷の祠を建て左衛門四郎稲荷という。のち斗瑩山光明寺が別当となり、山号をとって斗瑩稲荷という。
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タケ,オウゴンキュウ,(ソセイ) 1974年 東京都 江戸大伝馬町に住む佐久間勘解由の下女・竹は仁慈の心深く、貧しい者に物を与えたりしていた。ある時頓死してしまったが、身体が温かかったので見守っていたところ、ついに蘇生したという。そこで冥途の様子を聞くと、果てしない広野を歩いていたら黄金の宮殿にあり、仏にこれは竹が来る台だと言われたという。その後いよいよ念仏を行い、大往生を遂げた。近所の者が湯殿山に参詣したところ竹に会い、竹は念仏を勧めて消えたという。
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リュウホウジノシャカ 1956年 宮城県 炭焼藤太が栗原郡金成に建てた福王寺の本尊であったのを、四代藩主綱村がここに移した。当時福王寺は小さい寺になり、本尊は縁の下に放り込まれ、毎年2月15日の祭に子供たちが引っ張り出して縄でしばり、堂の周りを引きずり回して遊び、また床下に押し込んでいた。その後、住職が新しく入寺して本尊を洗って本堂に安置したところ、せっかく子供たちと遊んでいるのに余計な邪魔をするといって釈迦に叱られ、大熱を出しうわごとを言って暴れる。そこでまた元のように床下に放り込んだら、和尚の熱は忽ちさめたという。今も出世の釈迦として信仰を集める。
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バンザン,テング 1956年 宮城県 もとの名取・宮城の郡境にまたがる根張りの広い山。弘法大師は山容を蓮葉にたとえ、霊場にするため九十九谷まで開いたが、天狗に妨げられ一谷を残して紀州に去り、高野山を開いた。慶安3年(1650)慈光不昧禅師雲居和尚が瑞巌寺を引退してここに隠居したときも、天狗どもが和尚の法力をためそうといって和尚の障碍をしたが、この山を根城とした万二万三郎兄弟が和尚のために天狗を追い払った。和尚はこれを徳として、山上に坐禅堂を建てたときに二王護国大権現の号を贈って一山の鎮護とした。
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オイワケニョライ 1956年 宮城県 出羽国寒河江慈恩寺の覚明阿闍梨は、湯殿山の霊夢により弥陀の本尊造像を京の安阿弥快慶に頼む。快慶が精魂を打ち込んだ阿弥陀如来は会心の作で覚明に渡すに忍びず、いまだ出来ずと偽って覚明を帰したが、翌年約束どおりに訪れた覚明に渡すこととなり、名残を惜しみ近江の草津まで見送る。別れるとき笈を開くと、光明がさし一体の阿弥陀像は二体となっており、いずれが本仏とも化仏とも分明せず、二人は一体ずつ負って別れる。よって笈分如来とも身分け如来ともいう。覚明は南北に川が流れ、一本の菩提樹の生えている地を夢に見て、今の地に移した。他の一体は京都市下京区富小路六条角の蓮光寺にある。
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ドクロ 1976年 京都府 後白河法皇は前世で熊野の蓮華坊という山伏であったが、谷へ落ちて落命した。その後、柳が生えて髑髏を貫いたために、風で柳が揺れるたびに法皇は頭痛を病む。ゆえにその髑髏を埋めて柳で三十三間堂の棟木にした。このことから、蓮華王院の名がありながら頭痛山平癒寺とさへ呼ぶようになった。この縁起は花山院の話を元にしたものであるだろう。
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モニワノヤケウス 1985年 福島県 あるときに、伊達政宗が戦にやぶれて逃亡中に茂庭家の何代目かに救いを求めた。そのとき茂庭家では大きな臼を作っていたのでその下に政宗を隠した。追っ手がやってきて火をつけると大きな臼もガワは焼けたがその中の政宗は助かった。この臼を茂庭の焼け臼という。助かった政宗から自分が築城したらこれをもって会いに来いと書きものを渡されたので行くと、命の親として客分に迎えられたという。
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セッカン 1976年 京都府 寛政のはじめ、清水外六坊の修理をしようと前の道を掘ったところ、石棺のようなものが発掘された。すると、それを掘り出した者をはじめ、掘ることを計画した人も暴病に罹り死んでいった。『源平盛衰記』にある怪獣一竹を埋めた塚がこの辺りであるから、きっとこれであるだろうと、石棺に土を盛り上げ小さな社を造った。平清盛が命に従い捕らえた南殿の鵺を埋めた塚ではないだろうか。
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