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アラマキノモンジュ,ユメノツゲ
1956年 宮城県
相馬中村の山伏佐藤八大院長秀は、弟甚次郎定次と共に父の仇の山伏上之坊を大和大峯の果無し峠に討った。仙台に移って伊達政宗に召しだされ、嶺八郎と改めて禄若干を賜る。ある日文殊菩薩の埋木像が賢渕に沈んでいるのを夢想の告げによって引き上げ、これを本尊として荒巻山街道沿いの丘上に堂を建てた。昔は女の子が13歳になれば、知恵を授かるといって必ず参詣した。

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ニチレン,ブツゾウ
1973年 栃木県
文政8年4月のころ、野州佐久山の中町に住む住吉や為八という者が、地面に池を作るといって、まわりの石垣となる石を近くの箒川から取り寄せた。するとその中の丸い石に、自然と二分ほど高く、左右に日輪月輪を伴った仏像が現れたという。日蓮宗の住職に見せると、それは日蓮上人であると言う。瘤のできたのを立願すると治った。それから近国の参詣者でにぎやかになった。
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アラマチノビシャモン
1956年 宮城県
栗野大膳の北目城が常に黒雲に覆われて攻めにくいのは、城の守護神毘沙門のためだというので、伊達政宗は「今より立派なお堂を建てて奉斎するからお力を貸してほしい」と願をかけたら、雲が晴れて城を落とせた。約束通り仙台に移すとき、敵味方どっちの願いも叶える毘沙門ではあてにならぬと、荒町で捨ててしまった。近所の子供がかついで遊ぶのを見つけ、大人たちが堂を建て、梵鐘を奉納したが重くて吊るせない。子供たちの知恵で鐘の下に板を差し込み高くして吊るすことができた。毘沙門はお礼に、子供達の「赤ん坊のお守をさせないで」との願いを聞き、それ以来荒町では子供に子守をさせない。祭には毘沙門の好きな子供角力を奉納する。
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シュゲンシャノタタリ
1956年 宮城県
昔仙台城下東郊に広田甚八という番士がいた。ある時仲間と酒盛りをしていると,盛り上がっている頃に山伏が戸口にやってきて法螺貝を吹き鳴らした。座興を壊された甚八は立腹して山伏に斬りかかり,助命を請う山伏を殺してしまった。翌日甚八はその筋に無礼討の旨を届け,お咎めもなくすんだが,その後行状を改めるどころか益々酒乱と狂気の状が募って遂に座敷牢で狂い死にしてしまった。また,甚八の息子が江戸番馬上役を仰せつかったが,上京の前夜一人の山伏が来てここは広田殿の屋敷かと聞く。そうだと答えると「みんな亡んでしまったと思っていたのに」というので下僕はこれを叱り飛ばし,その旨主人に告げた。主人も親戚も山伏と聞くと顔色を変えて,山伏を捕らえようと飛び出したが,その姿はもはや何処にもなかった。さて当主は江戸到着後間もなく失明して労咳を患い,やがて亡くなった。さらに男子彦兵衛と女子なかも幼くして死に,未亡人は後今市の丹野某の後添となったもののやはり不慮の禍で亡くなった。
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ジョウギニョライ
1956年 宮城県
本尊は、小松内大臣重盛が宋の径山寺仏照禅師に黄金を布施して逆修を営んだとき贈られた阿弥陀如来画像。重盛の遺命により筑後守貞能がこれを奉じ、肥後入道と称して常陸国に隠れ、さらにこの地に永住して平家一族の冥福を祈った。建久9年(1198)7月7日貞能が没するとき、死後墳墓の上に堂を建て、尊像を本尊とせよと遺命したのが起源。仙台地方では、古来、一生一度の願が叶うとされている。
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ダイニチニョライ
2001年 新潟県
城が尾という所に難攻不落の城があった。上杉景勝がこの城を落とすとき、猿八の人が野田からであれば城へすぐ行けると教えた。城が尾を落とし、 シンラク寺の仏様を焼いたが、焦げただけだった。川へ流しても流れずに、川を上った。のちに慈宣というお坊さんが飯持神社に納めた。
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ナベヤクシ
1956年 宮城県
文禄元年(1592)、征韓役に伊達政宗が岩出山城から出陣の途中、軍神の血祭に七ツ森で巻狩りを催したところ不猟で、政宗は機嫌をそこねて大森山へ登る。向こうに黒いものが見え、片倉小十郎に尋ねると、薬師如来だという。不猟の腹いせに鉄砲を打ち放つと、鍋薬師の胸が割れ、同時に政宗の鼻から血が出て止まらない。小十郎は三拝九拝して謝り、笹の葉で拭ったところ鼻血が止まる。政宗も乱暴を悔い、ふもとの周りに道をつけてお留め山にしたという。一説に、射た矢が刎ね返ってきて眼に刺さり、それで政宗は目ッコ(片目)になったとも。
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ダイモンボウトコウイン,ドウジョウジ,アダチガハラ
1956年 宮城県
本山派修験道で、平安時代白河にあり、のち仙台に移り大先達となる。藩政時代は清水小路五橋西南角に屋敷があった。三世安珍は延長6年(928)8月、27歳のとき紀州道成寺に修行に赴き、真奈古の庄司の娘清姫に恋慕され、日高川を越えて逃れようとしたが、清姫は大蛇と化して追い、安珍は道成寺の鐘の中に隠れたが取り殺される。それ以来東光院では歴代27歳の修行を禁じたという。また祐慶の代、熊野にいたり那智山に捨身一千日の行を修して帰ったのち、安達ヶ原の黒塚に住む鬼女を調伏したという。今も子孫は金津に残り、鬼女の頭蓋骨といわれるものを蔵する。
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キョウガミネ
1956年 宮城県
萩が多かったのでかつては萩ヶ崎といった。伊達政宗の瑞鳳殿霊屋のある所は、湯殿山の行者満海上人の建てた観音堂があった所で、その西向かいの丘に上人が大般若経を埋めたので大般若経ヶ峯と称し、のちに経ヶ峯となった。満海上人は観音堂の側に埋葬された。政宗の廟をたてるとき堂は他に移され、政宗の遺骸を葬る時、偶然上人の墓穴に掘り当たった。上人は片目で、政宗はその生まれ変わりだといわれていた。政宗が上人の墓に埋葬されたので人々は不思議の思いをしたという。
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ヤマノテラドウウンジ,ダイジャ,シロキツネ
1956年 宮城県
女とその懸想した男が大蛇となってから500年経た暦応元年(1338)、加州金沢の大乗寺三世明峯素哲禅師が陸奥に弘教し、岩沼竹駒神社の初午に参詣した時、老翁からこの話を聞き、その案内で大菅谷保の藤左衛門の家に泊った。翌未明山ノ寺の南の丘に登って大蛇の棲む寺跡の湖水を見、7日の間祈祷したのち一喝して杖を投ずると2頭の大蛇が現れて逃げ去る。そのとき白狐が飛び出して禅師に感謝し、永く寺の守護を約する。禅師が祈祷した地に寺を建て実相寺という。
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ダイジャ
1964年 福島県
茂庭の湖に大蛇が住み、人年貢をとった。建久3年の年に、金を集めて生贄の娘を那須野ヶ原に求めた。妹を売った人は斎藤実良の家臣今野図書で、主君の父の一周忌の追善のために妹・猿姫を売った。実良は不審に思い事情を聞いて大蛇退治に出かけた。9月19日に稲荷様からいただいた白羽の矢で大蛇を退治した。実良はその功により、伊達家の客として茂庭を頂き、移り住んだ。
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リョウマ
1935年 長野県
長野市郊外の相原神社では藁製の馬を献ずる。この馬にまつわる伝説が『桐原八景』にある。信州水内郡相桐は桐原というが、そこに成務天皇の時代、壬申年2月8日この野に龍馬が出現した。村の長がこの龍馬を捕らえて天皇に献上した。この龍馬は天皇崩御の後虚空に飛行し不尽山に入り、推古天皇の時代に不尽山を出て甲州に下った。甲州曽我の大臣はこれを捕らえて聖徳太子に献上して聖徳太子はこの馬に乗って7日間虚空を飛行し、霊山奥窟に分け入った。太子崩御の際には葬礼に供し、廟の前で死んだという。
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ダイジャ
1930年 静岡県
昔、爺さんと娘が行方不明になった。村人が山を捜索していると生臭い風が吹いてきて、水風呂桶のような頭の大蛇が現れた。そこに南部六という猟師が現れ、大蛇を退治しに向かったが、大蛇に殺されてしまった。その後、南部六の双子の娘が父の横死を知り、観音の加護をもって敵を討った後、巡礼の旅に出た。村人は蛇の祟りを恐れ、高徳の坊さんを頼んで蛇骨を埋葬して堂を建て蛇骨山大蛇院と名づけた。
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ダイジャ
1982年 群馬県
善導寺の住持・道阿上人の母が、明徳4(1393)年4月8日榛名権現に参拝しての帰りに、伊香保の沼に身を投げ、はたひろ(約24m)の大蛇になった。上人が会いに行くと、鱗3枚を渡し、善導寺に水の不自由はさせないと約束した。上人は沼の辺に石碑を建立した。
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テングノヒジュツ
1956年 宮城県
昔、立石屋敷の佐藤松吉という者に理八とよぶ武芸好きな息子がいた。家が貧しく、館矢間村の小田という豪家に奉公しつつ、夜分は同村の剣道指南高木与惣兵衛のもとに通った。学ぶこと3年、20歳の頃、理八に勝つ者はいなくなったが、先生は奥許しの目録を与えなかった。理八は貧乏人の故かと僻んだが、自分の未熟さを悟って気を取り直し、毎夜同地万騎の峰の中腹にある俗称天狗の宮に、剣の工夫に通いだした。そこは昔から天狗が棲むといわれており、夜路に山犬が横たわっていたり、美しい女が現れたり、生首が飛んできたり、恐ろしいことが起こったが、理八は毎夜猿や樹木や巨岩を相手に剣の工夫を凝らした。ついに百七晩目の夜の丑の刻に天狗が現れて理八を掴み、天狗の宮の谷沢一つ隔てた天狗の角力場に放り投げられたかと思うとまた投げ返され、その間に飛空の術を会得させられた。のちに理八はここに天狗尊を祀り、村に道場を開いた。一寸の間に4,5里先の隣村に往復したり、他流試合に来た江戸の武芸者を角田の大沼に案内して湖上を歩き出して度肝を抜いたりした。評判が仙台藩公の耳に入り、養賢堂大道場で御前試合を行い、「飛剣」の名を与えられた。
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キノシタノヤクシ
1956年 宮城県
伊達政宗が大崎義隆と戦って旗色がわるかったとき、48人の法師武者が現れて敵を切り崩し、伊達勢に勝利をもたらした。政宗が「いづこの御僧か」と尋ねると、宮城野の木ノ下の住人とのみ答えて姿を消した。家臣に調べさせると野中に石殿があって薬師如来が安置してあった。その夜、夢の告げでこの薬師如来の加勢であったことを知った。
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ビャッコ
2004年 長野県
飯田市願王寺の伝説では、永寿10年に将軍足利義教と鎌倉の足利持氏が戦った。持氏の末子永寿丸は山中に逃げ延びたが、父祖の業を継ぐため松川の里山に下りた。そこで不思議にも現れた白狐の指示で信仰していた鎌倉稲荷の堂をつくる。鎌倉に戻った永寿丸は、大日如来と稲荷を本尊とした願王寺を建設した。正徳5年(1715)に松川が洪水に襲われ願王寺が被害を受けた。そこで僧弁存が再興を図ると、白狐が現れて現在の地を示したという。
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タヌキ,ダンザブロウ
1975年 新潟県
佐渡国二ツ岩という山に、弾三郎という古狸がおり、非常に霊力がある。この狸は人に金を貸していたが、返さない者が増えたので貸さなくなった。ある時医師の伯仙が佐渡で病人を治したところ、病人の家の主が大金を礼にしようとしたが伯仙は受け取らなかった。すると主は自分は弾三郎という狸であり、これは兵火や洪水によって埋もれた金を、貧者を救う目的で拾い集めたものなので受け取ってほしいと請うが、やはり白仙は受け取らなかったという。次の日、礼に短刀を置いていった。
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サルトラヘビ
1987年 岐阜県
高賀山のさるとらへびという化物が暴れた。頭は猿、胴は虎、尾が蛇。禁廷様の子供をさらって殺した。その子を祀ったのが峯稚児神社。京都から藤原高光が来て退治した。高賀山の瓢ヶ岳の池の一つだけ動かない瓢箪がさるとらへびの真の姿で、それを矢で撃って退治した。さるとらへびの屍骸を焼いたところは草が生えない。さるとらへびの喉仏と言う物が宮にあり、外に出すと雨が降った。
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テング
1932年 群馬県
上総の千葉左衛門経政は、一子相満を船尾山水澤寺にあずけた。相満が14歳になったとき、行方不明になった。経政は息子を和尚が隠したと思い寺に火をつけた。炎の中に白髪の老人が現われ、背後に息子の姿が見えた。息子が天狗にさらわれた事を知った経政は谷間で自害した。村人は憐れんで経政神社を建てて、その魂を祀った。
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アキウオオタキ
1956年 宮城県
名取川の全川瀑で、貞観2年(860)、慈覚大師が不動を祀って山寺立石寺奥の院とした。元和9年(1623)山形城主鳥居忠政が山寺の朱印地を犯して寺と抗争したとき、立石寺中興の円海上人が、三七日大滝に参籠して、忠政調伏の呪詛を修した。満願の日、滝壺に投じた藁人形が高さ55メートルの滝を昇ったという。上人は不動堂前に経壇を築いて去る。よって経壇原という。
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