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検索対象事例

ヒタチボウカイソン
1931年 宮城県
阿子島屋という古い呉服屋にいた老人は超長寿で、甲州流の秘法とされる戦場沓の製法を知っていたり、元禄3年に107歳で死んだ天鑑和尚が15、6歳の頃にはすでに老人で経を教えていたり、家康の時代に暦にすでに暦の誤りが指摘されていたことを知っていたり、元禄5年の火事を呪文で水を呼んで鎮めたりしたといわれている。元禄6年に死んだと言われているこの老人は常陸坊海尊だと信じられている。

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ヒタチボウカイソン
1931年 宮城県
源義経の家臣であった常陸坊海尊は仙人になり、元亀天正のころ、関東や信越地方で源平合戦や奥州落ちの様子を詳細に語ったという。不思議な道士風で、年齢は500歳にも及んだといわれている。
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ヒタチボウカイソンセンニン
1931年 福島県
海尊は源平時代の人である。天正のころまで400年近く生きていたといわれている。菜飯を食べていた天海僧正に枸杞飯を食べさせたのは残夢であるが、これも海尊であるとされている。天正から130年ほど後の正徳年中の頃にいた不思議な老人は判官の話を詳しく知っており、残月と名乗っていたが、これも海尊であったという。
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チセン
1980年 群馬県
上州伊香保にある温泉に1人の樵がいたが、周りの住人は彼の年齢を知らなかった。その地の古老が言うには、彼は源義経の旗指で、奥州合戦の時に義経とともに蝦夷の地に逃げた。義経は彼の忠勤を称えて、常陸坊海尊の伝えていた灸の技術を彼に伝え、彼はそれによって地仙となり長寿を得たという。
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タヌキ,コウシンシンパチ
1922年 徳島県
天正寺の庚申さんは神籤が良く当ると評判だが、これは庚申新八という狸の力という。新八が住んでいた庚申谷の近くには蜂須賀藩の火術指南北島藤蔵が住んでいたが、その流れ弾が新八の棲家に当り、眷属が多く殺されたので悪戯をはじめたという。子分に老婆や20位の女に化けさせて藤蔵やその弟子をだまさせたりした。また新八も道路を川と見せて、美女に化けて北島氏と相合傘で一緒に帰り、カサを卒塔婆と取り換えるなどしてだましたが、終いには北島氏に撃たれて死んだ。その死体は3日めにようやく狸に戻ったという。
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ユウレイヤシキ,キンノイシ
1941年 愛媛県
凧屋の八兵衛という人は、嫁を迎えた時に、無人家の幽霊屋敷で祝言を上げたが、夜中庭に火が見える。あやかしだといって屋敷を出ようと思っていた八兵衛に娘はそれが金の石だと教えた。掘ってみたら金の杯が出てきて、八兵衛は長者になったという。
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タイシュン,ドッコショ,ホウ
1977年 京都府
大元明王の法は、法淋寺の常暁が入唐して将来した密教の法であるが、平将門の乱が起きた時、泰舜は剣輪の法を行い、彼が土印を結んだ時に壇上の独古杵がたちまちおれてたという。その日に将門は討たれたといわれている。
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ビシャモンテン
1979年 奈良県
ある店の裕福な若主人が3年前に人相占い師に見てもらったところ、3年以内に寒さと餓えで死ぬが、信貴山の毘沙門天に寒参りすれば、その厄を免れて長生きできると告げる。若主人は2年間参ったが、最後の年の参詣時に大雪に遭い、従者に先に登ってカゴを借りてこいというが、従者が戻ったときには若主人は凍死していた。
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ヤシマノハゲダヌキ
1922年 香川県
屋島の禿狸は源平屋島合戦の時、木の上に登って戦を見物して行ったのでその一部始終を知っている。その後禿狸は八栗寺に移して、屋島の合戦を演じて四国における狸大将として暮らしていたが、ある時狩人に殺されたという。これは禿狸が死後人に乗り移って話した身の上話という。また祖父母の話では、嘉永安政頃、阿波西林村の女髪結の体を借りて、吉凶その他を予言したり、他の狸憑から狸落しをしていたという。日清日露戦争では多くの乾分を従え、満州へ出征して大いに働いたという。
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テング
1932年 香川県
宝永の頃、讃州高松の隣村中の村で、三吉という男が天狗に使われていた。三吉が病を患い長くはないので天狗に暇乞いをすると、天狗が3年寿命を延ばす秘薬の調合を教えた。その薬を服用すると、八日目に臍から蝶が飛んで出た。病が全治したので、天狗の為に社を建て、高戸の神と祀った。三吉の娘のお菊は、その薬で多くの人を助け、神職に秘術を伝えたという。
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ヤオビクニ
1931年 福井県
若狭に八百比丘尼と呼ばれた超長寿の尼僧がおり、源平時代のことを実見談としていろいろと語ったという。少女時代に人魚の肉を食べたために老いることがなく、人々に怪しまれて尼僧となり、他国を流転した。寛文2年、800歳のときに若狭へ帰り、建康寺を建て、断食入定したといわれている。
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カンゼノンボサツ
1970年 山形県
弘化年間、長町にせんという、産婆を業とする女がいて、人々に慕われていた。ある秋、仕事帰りの夜道で、8歳ほどの男の子に声をかけられた。翌春の彼岸の晩、その男の子は再び現れ、紙包みを手渡した。男の子の正体は高松の観世音菩薩で、包みの中身は徳利だった。徳利からは病人を治す蜜が出て、霊験あらたかな徳利としてたちまち評判になったという。
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リュウ
1976年 東京都
寛政の頃、小日向大曲で竜の昇天があった。その前に小日向あたりの家々を老僧が回って、竜が昇天するので気を付けるように注意を促した。旗本土屋某が、その老僧を座敷に上げて話をすると、老僧は実は竜であり、水がないために昇天を待っている事がわかった。そこで土屋氏は硯の水を神酒徳利に入れて与えると、老僧は喜んでそれを請け、数日後に晴天だったのが急に大風雨になったので、老僧が昇天したのだろうと土屋氏は思った。雨の水は墨水であったという。
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キカズドウロクジンサマ
1987年 長野県
長久保の町外れにある道祖神。魔物や疫病が入りこまないようにしてくれる神様で,2月8日におはぎを供えてあんこをお顔に塗ると良縁が得られると信じられた。孫の耳が聞こえないのに悩んだおじいさんが毎日道祖神様にお参りしていたが,100日にもなろうかという天気のよい日,孫とお参りを済ませて帰ろうとすると南の空が俄かに曇り,雷が落ちた。孫を助け起こすと「でっけえ雷の音でおっかねえ」と言ったのでおじいさんは喜び,お礼として,家宝にしているお椀の底に穴を開け紐を通して差し上げた。以後,耳の病気にご利益があると信じられ,「きかずどうろくじん」と呼ばれた。
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チョウジュ
1931年 愛知県
徳川時代、超長寿の一家がいた。慶長7年生まれの農夫、萬平(満平とも)が150歳のときに将軍吉宗に語ったところによると、足に三里灸をすえるのが長寿の方法かもしれないということであった。天保10年の記録によると、萬平240歳、妻(後妻)132歳、長男萬吉199歳、その妻、196歳、萬造152歳、その妻151歳であった。渡辺崋山の門弟がこの3夫婦を描いた一幅が残っている。
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ヒタチボウカイソンセンニン,シイラビクニ
1931年 岩手県
文治4年の夏、平泉に釣りに出かけたときに老人がやってきて、洞窟の中で真っ赤な魚を馳走された。いっしょにいた五郎三郎はその肉を食べずに持って帰った。五郎三郎の娘で6歳になるシイラがその肉を食べたがり、親のいいつけにそむいて食べてしまった。それから後、シイラはいつまでたっても死なず、200年ほど前に比丘尼になったが、今はどこにいるかわからない。この老人は海尊仙人であったという。
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クラマノテング
1972年 石川県
元文2年6月17日、天狗に円八という者が天狗にさらわれた。ある夜円八が女房の夢に現れ、秘伝のアンコロ餅の作り方を教えた。その家はアンコロ餅の作り方を子孫に伝えて、現在に至っている。
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ロウコ
1977年 岐阜県
濃州安八郡春近村の富農・井上与三郎の家の庭に昔から住む老狐は、代々地主と親しく、郷里の者たちと常に言葉を交わしていた。名を板益亥正といい、また別名を梅庵といっておよそ300年住んでいるという。書も巧く、また禅なども論じ、医学にも通じていた。ある時、行方知れずになり、里の者が探すと、大津の駅で見つけた。都に移住し死期も近いという。その狐はもともと寧波あたりの僧で、邪見によって獣となってしまったという。井上の子供に教えていた手習いも、岐阜山孝寂という実は野干である僧に頼んでおいたという。
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カミクチ,ホトケノクチキキ,カミオロシ
1982年 新潟県
駒林にいる盲目のミコサマは、20歳のときに師匠のミコサマに弟子入りして神口の修行をした。亡き人の死霊を自分にのりうつらせて仏の口聞きをする。大人ならば死後49日、子どもならば35日がすんでからだという。駒林に住むおばあさんは、夫に先立たれ、ミコサマへ仏の口聞きにいった。ミコサマは白衣をまとってオハライし、神オロシにかかるが、村の鎮守様がでると、それ以降は何も分からなくなる。このばあさんは母親がなくなった時にも行ったという。
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アカボウズ
1974年 京都府
日野一位資枝が若い頃、家の子に向かって深夜まで酒を飲んで物語を聞かせていたところ、屏風の後ろがにわかに明るくなり、誰かが紙燭をもって歩いている気配がした。そこで屏風の後ろを見てみると、火焔の中にあかき法師が立っていた。人を呼んだところ、たちまち消えてしまったという。これはあか坊主といってこの家に吉事がある兆しだという。
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ロウコ
1977年 岐阜県
老狐の筆跡がある。濃州安八郡春近村の富農・井上与三郎の家の庭に昔から住む老狐は、代々地主と親しく、郷里の者たちと常に言葉を交わしていた。名を板益亥正といい、また別名を梅庵といっておよそ300年住んでいるという。書も巧く、また禅なども論じ、医学にも通じていた。ある時、行方知れずになり、里の者が探すと、大津の駅で見つけた。都に移住し死期も近いという。その狐はもともと寧波あたりの僧で、邪見によって獣となってしまったという。井上の子供に教えていた手習いも、岐阜山孝寂という実は野干である僧に頼んでおいたという。
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