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怪異・妖怪伝承データベース
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検索対象事例

ヘンゲ,シシコマ
1935年 香川県
昔覚城院は細川越中の守の居城であったが、長曽我部氏の襲撃により3月3日落城し城主は自害した。そのため3月に雛節句を遠慮し、八朔に雛を飾る。その際に団子で馬を作って飾るのは、細川越中守没落後、その城址あたりの畑を猪でもなく、馬でもない怪しいもの現れて荒らすので、これは殿様の悲惨な最期の変化であるといい、3月の節句を遠慮し八朔にシシコマを団子で作り祀り上げるようになった

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リュウジョ,ダイジャ,コマヅカ
1976年 兵庫県
康保4年の冬、源満仲が能勢の山で猟をした時、夢に竜女が現れて、礼に竜馬を与えるので川下の大蛇を退治して欲しいと願った。目覚めると1匹の馬が傍にいた。満仲はその馬に乗り大蛇を退治した。満仲の死後も馬は生きていたが、やがて死に、家臣の者が馬を山岳に埋めてその上に堂を建て、駒塚山堂と名付けた。その後文明2年3月18日から毎夜駒塚が発光した。慈光山普明寺の住僧が塚で普門品を誦したら、たちまち雷鳴して馬の頭が出現した。住僧はそれを持ち帰り竜馬神と名付け金堂に納めた。
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(オキクノタタリ)
1982年 群馬県
小幡の殿様が妙義で見初めた菊という女を侍女にし、寵愛したので他の侍女や奥方から恨みを買い、お菊が殿様に差し上げる御飯に針を入れられた。殿様は怒ってお菊を責め、お菊は宝積寺の山門まで逃げてかくまってくれと言ったが、寺は門を開けなかった。お菊は追手につかまり、蛇とムカデの入った樽に入れられ、宝積寺の池に投げ込まれて死んだ。お菊の母が「お菊が無実なら芽が出ろ」と池のほとりに炒りゴマをまいたら、芽が出た。お菊の祟りで宝積寺の山門は何度建てても焼けてしまう。
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サネカタヅカ
1956年 宮城県
在中将藤原実方は長徳元年(995年)3月、東山の桜狩りに「桜狩り雨はふり来ぬおなじくは濡るとも花の蔭にかくれむ」と詠み、絶唱と称えられたが、衆の前で藤原行成に「歌が美しいがおこの者なり」とけなされ、実方は怒って行成の冠をつかみ、紫宸殿の廊下に投げる。一条天皇の怒りにふれ、陸奥の歌枕見て参れと陸奥守に遷され、多賀国府に下る。同4年11月、出羽に阿古耶の松を訪ねての帰途、名取郡笠島の道祖神の社前を通り、邪神として乗り打ちしたところ、馬が棒立ちとなって落馬し、今、仮宿と称する民家で死ぬ。享保7年(1722)11月4日五代藩主吉村が詣で塚を修築。
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クビナシウマ,ウブメ
1976年 愛媛県
昔、東野の奥の城の若殿と、松末の城の姫は恋仲となった。両家は元々仲が悪かった。そのうち松末の姫は身ごもり、怒った松末城主は若殿を馬と共に殺した。奥の城主は怒り、姫を斬り殺した。姫は竹やぶに入り、赤ん坊を生んだという。竹やぶでは今でも赤ん坊と産女の声が聞こえ、雨の降る夜には首無し馬が若殿を乗せて走るという。
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(オキクノタタリ)
1982年 群馬県
国峯城主の小幡公が侍女の菊ばかりを寵愛したので他の侍女が妬み、公の御飯に針を入れて、菊の仕業とした。菊は蛇責の刑となり、桶に入れられて宝積寺の池に沈められた。日野村の小柏源六が通りかかった時に桶を開けると、大量の蛇と瀕死の菊が出て来た。菊は「このご恩にお家に蛇の害は無いように致します」と言って亡くなった。お菊の母が「お菊が無実なら芽が出ろ」と池の辺に炒りゴマをまいたら、芽が出た。お菊の祟りで小幡家に戦死や切腹の沙汰が続いたので、宝積寺に碑を建てて供養した。
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モチヅキノコマ
1987年 長野県
豪族望月氏に生駒姫が生まれた日,牧に月毛の馬が生まれた。生駒姫が13歳の時天皇に召されることになり,それを聞いた月毛の駒はものを食べなくなり,衰弱してしまった。修験者を呼んで占ったところ駒が娘に恋をしていることが判明し,娘も都に上るより月毛と一緒に暮らしたいと言い出した。そこで望月の殿は月毛に難題を出し,鐘四つから九つまでの間に御牧七郷を三回まわれれば娘をやると約束した。到底不可能と思われたが,月毛が成し遂げようとしたので偽の九つを打たせたところ,月毛は絶望して崖に身を投げてしまった。その後生駒姫は尼となる。崖の中腹の洞窟に,今も馬頭観音が祀ってある。
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アラマチノビシャモン
1956年 宮城県
栗野大膳の北目城が常に黒雲に覆われて攻めにくいのは、城の守護神毘沙門のためだというので、伊達政宗は「今より立派なお堂を建てて奉斎するからお力を貸してほしい」と願をかけたら、雲が晴れて城を落とせた。約束通り仙台に移すとき、敵味方どっちの願いも叶える毘沙門ではあてにならぬと、荒町で捨ててしまった。近所の子供がかついで遊ぶのを見つけ、大人たちが堂を建て、梵鐘を奉納したが重くて吊るせない。子供たちの知恵で鐘の下に板を差し込み高くして吊るすことができた。毘沙門はお礼に、子供達の「赤ん坊のお守をさせないで」との願いを聞き、それ以来荒町では子供に子守をさせない。祭には毘沙門の好きな子供角力を奉納する。
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オシドリ,フジン
2002年 栃木県
犬伏町下の谷に鴛鴦塚がある。太田二郎左エ門尉式宣という弓術の達人が、鳥獣を射ていた。ある日三毳山で狩をしていたが終日獲物がなく、帰ろうとしている時に阿曽沼の東岸で鴛鴦を見つけて射て持ち帰った。その夜熟睡していると忽然として戸外に声がして、妙齢の婦人が歌を詠み、号泣した。3、4回それが続いたので一喝し戸を開けると一羽の鳥が飛び去った。不審に重い夜が明けてから鴛を射たところに行ってみると、鴛が菰の茎を咥えて死んでいた。式宣は悔悟して、自ら塚を築いて鴛を併せて埋葬し、入道した。
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オシラサマ
1975年 岩手県
金満長者の飼い馬が長者の娘に恋をしたため娘が病気になった。怒った長者が馬の皮をはぎ栗の木に掛けた所、蚕が生まれ繭をかけた。その後娘は全快したが、馬に乗って宮参りに出たところ、天上から馬の声がして娘と馬が消えた。それでオシラサマを作り供養した。
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(オキクノタタリ)
1982年 群馬県
小幡の殿様が侍女の菊を寵愛したので奥方や侍女の恨みを買い、殿様に差し上げる御飯に針を入れられた。殿様は怒って菊を責め、蛇の入った樽に入れ、宝積寺の池に投げ込んだ。小柏源介という侍が悲鳴を聞いて樽を開けると、瀕死の菊が出て来た。菊は「このご恩にお家に蛇の害は無いように致します」と言って事切れた。お菊の母が「お菊が無実なら芽が出ろ」と池の辺に炒りゴマをまいたら、芽が出た。お菊の祟りで小幡家に怪異があったので、宝積寺に碑を建てて供養した。小幡家では菊は植えない。
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ヒイヒイザル
1993年 三重県
ヒイヒイ猿という猿が、黒田集落から娘を人身御供に取っていたので、旅の由井小雪が身代わりになった。小雪が神輿に乗って待っていると、松脂と砂で毛を硬くしたヒイヒイ猿が降りてきた。小雪は毛の隙間のある首と足を狙って猿を斬り捨てた。猿の頭は比奈知へ、足はサガラの橋へ飛んだ。猿は「去る」に通じて縁起が悪いから婚礼の行列はサガラの橋を通らない。比奈知では今もヒヒマツリという祭りをしていると言う。
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ダイジャ,ムスメ
1929年 長崎県
2匹の大蛇に困っていた農民たちは、島原城主に頼んで蛇狩りをして1匹を殺し、1匹に痛手を負わせた。島原城下の杏庵という医者のところに毎夜更けにくる女がいた。女は治療の末完治し、その後杏庵との間に子供ができた。ある時、正体が大蛇だとわかり、子供にくりぬいた片目を残し、去っていった。その後、寛政4年4月4日に眉山が崩れる地震が起きた。眉山の下の蛇町の人は大蛇に逃げ道を阻まれて家にいた人々は命が助かった。地震は蛇の崇りだといわれ、その責を負って島原城主は自害した。
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ケモノ
1980年 静岡県
遠州見付の天神さまに、人身御供の風習があった。通りかかった六部がお告げを聞いて、お告げ通りしっぺい太郎という犬を娘の代わりに箱に入れて連れて行く。しっぺい太郎は娘を食べようとやってきた獣をやっつけるものの、傷を追って、観音山まで来たところで息を引き取ってしまった。あるいは、観音山まで来たところで、しっぺい太郎は六部と大木の下で眠っていた。すると突然しっぺい太郎が吠えだし、六部に飛びかかろうとしたので、六部は鉄砲で撃ち殺してしまった。しかし、しっぺい太郎は木の上の大蛇に飛びかかろうとしていただけであったとも言う。
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カイブツ,ヒヒ
2004年 静岡県
磐田市の見付天神の話であるが、毎年、祭りが近づくと白羽の矢が飛んできてそれが突きささった家では娘を人身御供として差し出さなければならない掟であった。白い柩に入れられた娘は得体の知れない怪物に食べられてしまう。延暦年間8月に、旅の僧侶が、怪物の「信濃のシッペイタロウ(悉平太郎)に知らせるな」との言葉を聞き、信濃の赤穂村(現在の駒ヶ根市)の光前寺の犬、シッペイタロウを見つけ出す。シッペイタロウは怪物と戦い、退治した。この怪物の正体は年老いた狒々であったという。磐田ではシッペイタロウだが、駒ヶ根ではハヤタロウ(早太郎)、シップウタロウ(疾風太郎)といい、光前寺境内に犬の墓がある。
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カネコイナリ
1986年 埼玉県
金子越前守という者が住んでいた。ある晩美しい女が訪ねてきた。暫くこの女をとどめておいたが、次第に心を惹かれるようになり女は子を孕んだ。しかし女は、「つい長い年月を過ごしてしまいました。この子を産んだら京に帰らねばなりません。」と泣いた。次の夜、赤ん坊の泣き声に驚いて女の寝間に行くと一匹の狐が東の窓を打ち破って逃げていった。越前守は京へ上り、伏見稲荷の分霊を持ち帰り、庭に祠を建てて祀った。これが今の金子稲荷である。また、これ以来金子家では東に窓を作らないと伝えている。
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ヤザエモンヤシキ
1987年 長野県
親沢から笠原へ越す峠の下にある。昔,ここに住んでいた弥左衛門というお大尽は「なんたらこま」という栗毛の馬を可愛がっていた。ある年,悪い病気が流行って一家の者が寝込んでしまい,弥左衛門は田植えが遅れることを嘆いてばかりいた。ある晩「なんたらこま」が急にいなくなったので,夜が明けてから蹄の跡を辿っていくと弥左衛門の田に続いており,田植えが全て終わっていた。更に辿っていくと「なんたらこま」は妙見様の祠の前で草を食っていた。妙見様の木像の腰から下が泥だらけになっていたので,馬に頼まれて妙見様が田植えをしてくれたのかと,村人は妙見様を伏し拝んだ。妙見様でなくて八幡様だという人もいる。
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ドクジャ
1976年 静岡県
桜村に池の社という方5町程の2つの池がある。毎年8月彼岸の中の午の刻に半切り桶に赤飯を盛って水泳が達者なものが池の半ばまで押し行き池の真中で手放す。池の水が渦巻いて桶は水中に沈む。伝えによると昔、国主が入国した頃、妾とこの池辺りに遊興した。すると俄かに池に波が立ち妾が池に引き込まれてしまった。国主は怒って池に焼いた石を投げ入れさせ続けた。7日7夜続けたところ毒蛇が死んで浮かんできた。頭は牛のようで、背に黒い鱗があり、白い角が生えていた。また肥後の阿闍梨皇円の霊魂がこの池に入ったとも言われる。
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クビナシウマ
1985年 愛媛県
吉川城の殿様は、ある時大殿である河野通宣の機嫌を損ねてしまい、攻められた。結局、赤痢のような病気にかかったせいで攻め落とされた。それからしばらくして吉川城付近である男が首のない馬にまたがった血まみれの武将に出会い、その後三日三晩苦しんだ。同様のことが続くので、皆で墓とお堂を建ててまつった。
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レイ,ボウコン
1929年 青森県
高館でも、ある城で水の手を切られて困ったことを隠さんが為に、馬に白米を注ぎかけて水で洗っているようにみせかけようとしたが、見抜かれて弱点をつかれ終に落城した。城主は馬で新法師という村に走り込んで戦死し、其の後作られた塚からは霊が祟り、落城の際に死んだ者の亡魂が現れた。
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クビキレウマ
1967年 高知県
入野但馬守がせめてきたとき、敷地民部の女椿姫は、援軍を請いに首切れ馬に乗って引舟峠まできたが、敷地のほうをみやると火がたちのぼっていたので自害した。
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