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怪異・妖怪伝承データベース
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センタイノブツゾウ
1935年 鳥取県
文徳天皇の時代、因幡国金屋千賊谷に多数の強賊が立て籠って里人を脅かしていた。その頭目がそこの日の出の長者、鳥越長者の娘と仮装して通じたが、乳母に見破られ姫は恥じて自殺するに至った。頭目はますます毒牙を逞しくした。その時勅命で因幡国に下在業行平朝臣が下向し、何度も討伐に向かったが叶わず、朝廷に召還された。行平朝臣は神護を祈り、千体の仏像を作ってこれを祀ったところ遂に平定することができた。その仏像の余材を使って12本の羽子板を作り朝廷に献上したという。

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ヤクシゾウ
1936年 鳥取県
金屋の千賊と言われて恐れられている山賊がいた。時の中納言藤原行平卿が征討に向かったが、数年に及んでも滅ぼすことができない。行平は征討使の権を取り上げられた。行平は責を感じ、天地神明に誓い薬師如来14体を刻み、犬山神山下の川中に投じ、ひたすら千賊の退治を願った。行平は神護により千賊を退治し、帰京した。ある日囲碁をしていると、「中納言」と呼ぶものがいる。見ると薬師如来の1体であった。
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キョボクノセイ,マショウ
1935年 大分県
孝徳天皇の白雉年間に草壁春里という長者がいた。広大な邸宅でこの世の浄土のような生活をしていた。長者は権勢に任せて串川の上流にある千条の枝を持つ栢の霊木を切り倒した。その巨木の霊に祟られたのか、一家ことごとく魔性のためとられていった。筑後の国草野の庄に草野太郎衛門という弓の名人がいて、狩の道すがら残された長者の末娘、玉姫に会い、事の仔細を聞いて妖怪退治の決心をした。魔性に1矢を放つと雷鳴とともに空はかき曇り大豪雨になって小川は忽ち氾濫した。
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ヤオビクニ
1986年 埼玉県
文武天皇の御世に秦の通鴻という人がいた。ある時友人に誘われて海辺に行くと、いつの間にか宮殿のような所に立っていた。そこで出てきたご馳走を懐に入れ、持って帰った。娘がそれを見つけ食べると歳をとらなくなり、尼になった。そして諸国を回って神仏を拝み寺や神社の修造をし、川には橋をかけ、井戸を掘り、木も植えた。こうして世の人から「若狭の白比丘尼」とあがめられた。その後時代がたって八百年になったので、「八百比丘尼」と呼ばれるようになった。
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ヨウキ,キジン,ウナギ
1929年 岐阜県
今から九百年程前、村上天皇の頃、瓢ヶ岳の岩窟に妖鬼が山砦を築いて土地の民を悩ませた。鬼人の退治を命じられた九条関白藤原氏の八男右少将正三位藤原高光請卿は多くの部下を連れてこの地に来られた。鬼人は妖術に長じ変幻出没自在で手強く大牛、雉、十二ヶの瓢の化身となって現れ、矢に打たれて消えた。高光は神に祈ってようやく鬼人を仕留め、神の使いの鰻を川に放った。以来、粥川の鰻を食べると神罰を受けるという。
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ジャタイサツキヒメ
1961年 山梨県
南朝の落武者吉野某が落伸びて甲州河内領福士の奥に世を避けている間に村長の娘との間に生まれた女児をさつき姫といった。姫が17才の夏、征者2、3人をつけて村の上手にある池のほとりに出かけさせたが、娘が行方知れずになった。村中を探すが、知れず、多数の僧を招いて池畔で施餓鬼供養を営んだ。すると読経が終わらぬうちにどこからともなくさつき姫が現れ、自殺し先立つ不幸を母親に詫びて蛇体と化し、元の池へ姿を消した。すると雷鳴豪雨で山が崩れ池が氾濫し、蛇体さつき姫は福士川から富士川の彼方へ所在をくらました。
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オオスギノセイレイ,ササヤキバシ
1967年 福島県
笹木野の里の長者の娘に、毎晩しのんできた武士が、ある夜悲しそうに今夜限りと告げるので、娘は男のはかまのすそに長い糸を縫いつけた。あくる朝人を頼んで探してみると糸は近くの大杉の枝にかかっていた。神おろしをして聞いてみると、大杉の精霊が武士の姿になって娘のもとに通っていたのであった。精霊が今夜限りと告げたのは、福島藩主板倉公が一本の木で居室を作るための材木を探した結果、この笹木野の大杉に目をつけたからであった。大勢の人夫が苦心して切ったが、動かそうとしても次の日にはもとの場所に戻っている。古老が「精霊が通っていた女に音頭をとらせるとよい」と告げ、そのとおりにするとたちまち運び出すことができた。大杉は板倉公の居室に使用され、余った材料は大仏となり、耳語橋の材料になった。耳語橋が夜中にささやくのはこのためだという。
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ウマ
1967年 福島県
坂上田村麻呂が大滝根山の石窟に住む大多鬼丸という夷賊征討の出発に際し、清水寺開祖といわれる延鎮上人が仏像を刻んだ余材で鞍馬100匹を刻み田村麻呂に贈った。田村麻呂はこれを鎧櫃に納め戦に出たが、苦戦状態の時どこからか鞍馬100匹が陣営に走りこんだ。兵士たちはそれにまたがり大滝根山に攻め込み勝利した。ところが凱旋の時には鞍馬は皆消えていた。翌日1匹の木馬が三春近在の高柴村で汗まみれになっているのを杵阿弥が見つけ、延鎮上人の鞍馬に違いないと、残りの99匹を自ら刻み補った。3年後には見つけた1匹も行方不明になり、99匹を子孫に伝えた。杵阿弥の子孫は木馬を模作し村人に与えたところ、それで遊ぶ子供は強健に育ち、病気も軽くなったので子育駒の名がたった。
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オウマイシ
1943年 香川県
後陽成天皇の文祥年間の頃、細川国広という人が前田から小倉山に行く途中、老婆が道をさえぎった。国広が石を投げつけると老婆は飛び去り、今度は馬に化けた。馬を投げ飛ばすと大石になった。これが御馬石で、小倉山の入り口の畑の中にあり、他に移すと夜の間に元も畑に帰るといわれる石である。
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オトコ,ヤオビクニ
1984年 新潟県
佐渡の羽茂の里に住んでいた男は、加持祈禱をやって村人を驚かせていた。ある晩、村人たちを招いて珍しい肉を得たから食べてくれと焼肉らしいものを出すが、村人たちは気味悪がって誰も箸をつけない。田屋のじいさんが、その1片を袂に入れて帰る。娘がそれを知らずに食べ、それは人魚の肉で、娘はそれから齢をとらなくなる。その後、比丘尼になって、若狭の国に渡り、再び佐渡に戻ってくるが、若狭の国へ戻り、1000年の命のうち200年を国主に譲って大往生を遂げる。若狭の人々は八百姫明神と崇めた。
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イチョウ,ウトウ
1935年 青森県
允恭天皇のとき、烏頭中納言安潟は勅勘を蒙ったが 高倉の霊夢により外ヶ浜についた。安潟の死後、どこからかひと番の異鳥が飛んできて、雄がうとうと鳴けば雌はやすかたと鳴いた。ある時猟師がその雄を捕らえると、メスはそれを悲しんで啼いたが、まもなく猟師も非業な病に倒れた。里人は恐れて塚を立てて祀った。後に勅使が下って三角相という桶にこの善知鳥安潟をとらえ、大神宮に祀ったという。一説にはこの鳥は海鳥で、砂の中に巣をつくり雛を養育し、母鳥がうとうと呼べば、子鳥がやすかたと答えるという。
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センジュデラカンノン
1956年 宮城県
陸奥の小田の里に間(はさま)さいちようという無慈悲な富者があった。召使いの美女が亡き父母の弔いに千手寺へ詣でたため叱られ、一夜のうちに手桶で百代の田に水を入れよと申し渡される。女は泣く泣く水を汲む。夜になると千手観音の二十八部衆の中の童女が里の女に化身して手伝い、夜明け前に水が満ちる。さいちようが驚いて仔細を聞くと御仏の力と答えるので、千手寺の朽ち木の桜に花を咲かせよと命ずる。千手観音が現れて見事に花を咲かせ、孝女を救う。
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タタリ,キダン,キカイ,ヤマノカミ
1974年 京都府
文政11年、鳥辺野の地蔵山から土砂を採っていたところ、山の神といわれる所まで掘り進めてしまった。大きな壺に掘り当たり、怪しいと思ったけれども、周りや底のほうへ掘り進めた。すると突然土中が鳴動して、壺がすり落ちる音に驚いて人足が死んでしまった。そして世話人の数人もことごとく大病にかかり死んでしまった。老尼の祈禱者に頼み神おろしをしてもらうと、絶入の形になり、幣を持たせると居直って、にらみつけて、自分は明智の一類であり、山に葬られ、山の神と言われていたが、理不尽な振る舞いの鬱憤が晴れないと言う。後も地蔵を穴に納めて供養したり読経をしたりしたが死人が出た。
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サルトラヘビ
1987年 岐阜県
高賀山のさるとらへびという化物が暴れた。頭は猿、胴は虎、尾が蛇。禁廷様の子供をさらって殺した。その子を祀ったのが峯稚児神社。京都から藤原高光が来て退治した。高賀山の瓢ヶ岳の池の一つだけ動かない瓢箪がさるとらへびの真の姿で、それを矢で撃って退治した。さるとらへびの屍骸を焼いたところは草が生えない。さるとらへびの喉仏と言う物が宮にあり、外に出すと雨が降った。
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トミヤ、ヘビ
1956年 宮城県
昔、富谷の長者の娘へ夜な夜な通う美しい若殿があって娘はみもちになる。ある日娘が蛇に呑まれかけている蛙を助けてやると、その蛙が恩返しのため易者に化けて娘を訪ね、「毎夜通ってくる男は蛇だから、今夜来たら着物の裾に針を刺しておけ」と教える。娘は易者に教えられたとおり針を刺し、翌朝糸を手繰ると、近くの山の大杉のゴラ穴に入った。そのとき杉の木にとまっていた1羽の鴻の鳥が穴から蛇を引き出して十切れに噛みちぎって殺した。村の人は祟られないように一切れずつ十の宮を作って祀り、これを十宮と称したのがのちに富谷となった。娘は身重を恥じて川へ身投げして死ぬ。今も娘の名をとってそこをおまさ渕という。
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オニ,ウラ
1979年 岡山県
垂仁天皇の時代、吉備国で略奪を繰り返す百済の鬼神、温羅を退治するため、イサセリヒコノミコトが派遣された。勢い凄まじい温羅を攻めあぐねたミコトは、神力を現して1度に2本の矢を放ち、温羅の左目を射抜いた。雉や鯉に姿を変えて逃れる温羅を捕らえたミコトは、首を刎ねて曝したが、その首が何年も大声でうなり続けたため、温羅の霊を祀って鎮めた。
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シンゾウ,ミナモトノタメトモ
1977年 東京都
源為朝が八丈ヶ島の異類を退治し、鎮護の為に自分の姿を楠で作った。この像に幕府は毎年鎧を奉げる事が恒例になっていた。正徳2年、間違えて島民がこの像を島から運び出したところもがさが流行り、島民400人が死んだ。
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モチヅキノコマ
1987年 長野県
豪族望月氏に生駒姫が生まれた日,牧に月毛の馬が生まれた。生駒姫が13歳の時天皇に召されることになり,それを聞いた月毛の駒はものを食べなくなり,衰弱してしまった。修験者を呼んで占ったところ駒が娘に恋をしていることが判明し,娘も都に上るより月毛と一緒に暮らしたいと言い出した。そこで望月の殿は月毛に難題を出し,鐘四つから九つまでの間に御牧七郷を三回まわれれば娘をやると約束した。到底不可能と思われたが,月毛が成し遂げようとしたので偽の九つを打たせたところ,月毛は絶望して崖に身を投げてしまった。その後生駒姫は尼となる。崖の中腹の洞窟に,今も馬頭観音が祀ってある。
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イソラガミ
1956年 宮城県
大崎左京大夫義兼が志田郡松山城に松山治部大輔治次を攻めるとき、長雨で鳴瀬川が増水、逆巻く波で渡れない。そのとき、軍奉行中里豊後の船に12,3の子供が現れ、水棹をとって対岸に渡し、後続の船に綱を結び、全軍川を渡って松山城を攻めおとした。子供は姿をかくしたが18日の夕方豊後の家に現れて、船を渡したのは上一ノ関の磯良明神であると告げて行方知れずになった。義兼は社殿を造営、神田を寄進して奉斎した。
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エンノギョウジャ,ゼンキ,ゴキ,ヒトコトヌシ
1928年 奈良県
役行者が岩橋を作ろうとした際、前鬼と後鬼は一生懸命働いたが、葛城の神である一言主は醜い顔を見られたくないという理由で昼間には働かなかった。これに怒った行者は一言主を縛り付けて谷間に突き落とした。憤慨した一言主は宮女に取憑き、行者が邪神をあつめ、鬼軍を使って国を狙っていると帝に進言した。帝の兵はなかなか行者を捕らえることができなかったが、母親が責められているのを知り、自ら山を出て伊豆大島に流罪になった。
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(オキクノタタリ)
1982年 群馬県
国峯城主の小幡公が侍女の菊ばかりを寵愛したので他の侍女が妬み、公の御飯に針を入れて、菊の仕業とした。菊は蛇責の刑となり、桶に入れられて宝積寺の池に沈められた。日野村の小柏源六が通りかかった時に桶を開けると、大量の蛇と瀕死の菊が出て来た。菊は「このご恩にお家に蛇の害は無いように致します」と言って亡くなった。お菊の母が「お菊が無実なら芽が出ろ」と池の辺に炒りゴマをまいたら、芽が出た。お菊の祟りで小幡家に戦死や切腹の沙汰が続いたので、宝積寺に碑を建てて供養した。
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